前回の続き、B7号墳の裏側丘の斜面。
そこは須恵器窯の跡でした。
須恵器窯跡
古墳時代や奈良時代には、硬くて青灰色の須恵器と、軟らかくて赤褐色の土師器が使われていました。5世紀になって朝鮮半島から伝わってきた須恵器は、1000~1200度の高熱で焼くため、穴窯と呼ばれるトンネル式の窯が必要でした。穴窯は丘陵斜面を、幅1~2m、長さ10mほど掘り込んで、それに天井をかけたもので、焚口、燃焼部、焼成部、煙り出しで構成されています。
古代に「陶邑(すえむら)」と呼ばれた、いまの泉北ニュータウンを中心とした地域に、須恵器生産が定着する前は、数か所の地で初期の須恵器が焼かれていたことが、最近の調査でわかってきました。須恵器生産の技法をたずさえてきた渡来人が、それにふさわしい場所を選びながら、河内や和泉の地を転々としていた光景が想像されます。
この一須賀一帯にも5基の須恵器窯跡が確認されており、そのうち2基がここに残されています。今は保存のため埋めていますが、昭和49年に灰原を試掘調査した際、器台や甕の破片が出土しました。それらによって、一須賀窯が5世紀前半の、ごく初期の須恵器を焼いた窯であることが判明しました。
見学施設としては、ただの斜面ですが、陶邑の前身です。
その先、博物館へ向かう園路途中にI支群への枝道が。
石室上に橋がかかる場所もある、と魅惑的な解説があったが、時間の関係で次の機会とした。
国指定史跡 一須賀古墳群 J支群
J支群は一須賀古墳群の中央部、博物館へのびる尾根上に分布する支群です。15基の古墳が確認されています。墳丘はいずれも直径10m前後の円墳と考えられ、埋葬施設はすべて横穴式石室です。5基の古墳で石棺が確認されています。
7号墳と8号墳のところでは石室を真上から見学できるように、遊歩道に橋をかけています。
大阪府教育委員会 近つ飛鳥博物館
博物館の入り口付近には、園路の下に残された石室跡が。
I支群の5号墳でした。
国指定史跡 一須賀古墳群 I支群5号墳・7号墳
5号墳と7号墳はI支群の南寄りに位置する古墳です。いずれも横穴式石室を持つ古墳ですが、天井石は失われて、石室の底部だけが残されています。
右側の5号墳は、6世紀の中頃の築造と考えられ、土器や鉄鏃が出土しています。現地に保存するため、園路を橋にしました。
左側の7号墳は、6世紀後半の築造と考えられ、4基の木棺が埋葬されていました。耳環や鉄製品、土岐が出土しています。
大阪府教育委員会 近つ飛鳥博物館
小さな石室跡ですが、大切に残されていました。
近つ飛鳥博物館の前にあった、一須賀古墳群全体の解説。普通の見学コースはまず博物館を訪ねてから背後の古墳群(風土記の丘)を散策する形になるでしょう。
園内で見学できる古墳は40基とあるので、回れたのは半分以下でした。
国指定史跡 一須賀古墳群 (平成6年10月7日指定)
一須賀古墳群は、大阪平野の東南部南河内郡河南町・太子町にまたがってひろがる群集墳です。およそ1.5㎞四方の範囲に260基あまりの古墳が23のグループ(支群)にわかれて分布しており、八尾市の高安古墳群、柏原市平尾山古墳群とならぶ河内の三大群集墳のひとつにかぞえられます。
古墳は、横穴式石室を埋葬施設とする直径10~20mの円墳が中心で、石棺をもつものもみられます。近つ飛鳥風土記の丘園内では100基あまりの古墳を保存しており、そのうち40基の古墳を見学することができます。
古墳からは土器や鉄器のほかに、金銅製のくつやかんざし、ミニチュアのかまど形土器などが出土しています。このような出土遺物から、渡来人とかかわりの深い古墳群と考えられます。
古墳時代でも後半にあたる6世紀から7世紀にかけて古墳の築造が続けられ、中でも6世紀後半にもっとも多くの古墳がつくられました。
大阪府教育委員会 近つ飛鳥博物館
ここにはきれいな紅葉がありました。
駐車場(奥)から博物館入口(手前側)へのアプローチ。
次回、いよいよ博物館の中へ。