墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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明神下岡遺跡 鹿児島県出水郡長島町蔵之元

前回、明神古墳群とは小川を挟んだ、すぐ北側の丘上にある明神下岡(みょうじんしもおか)遺跡は、弥生時代から古墳時代にかけての墳墓群。

 

坂を上がっていくと案内表示。

 

振り返った眺め。明神古墳群は右の木立で陰。

 

ここの説明板も陶板でした。

明神下岡遺跡
明神下岡遺跡は、昭和59年4月調査され、縄文時代後期(約3500年前)の土器と、弥生時代から古墳時代までの墳墓が発見されました。墳墓は40~50基あると考えられますが、確認したのは30基でそのうち10基を発掘調査しました。
遺物と時期
26号墳からは弥生時代中期(1世紀)の山之口式土器が、1号墳からは6世紀の須恵器が出土しました。他に剣や土師器なども出土しています。このことから、明神下岡遺跡では、弥生時代中期の1世紀頃から、古墳時代の6世紀頃まで、長い期間、墓がつくられたと考えられます。


墳墓の構造
右写真の12号墳では、一番上に、支石墓の撑石(しょうせき)のように大きな石が2枚かぶせてあります。この掌石は露出し、墓標の役割をしていると考えられます。下の写真が撑石と石棺の蓋石を取り除いたところです。初めに長方形の石棺があり、ふたをして、囲りに小さな板石を並べています。


まとめ
この墳墓は、朝鮮半島の支石墓(ドルメン)の影響をうけたもので、五島列島や長崎県西海岸にも似た形式のものがあります。また、南九州独特の墳墓で、隼人の墓といわれる地下式板石積石室に構造は似ているものの、築造時期が早いことから地下式板石室の祖型と考えられています。
このように明神下岡遺跡は、九州西海岸や南九州の弥生・古墳文化を考える上で貴重な遺跡です。
長島町教育委員会

 

ここは各墳墓の位置に番号札が立っていて分かりやすいですが、時間の都合で個別には撮っていません。

 

入口そばにあった21号墳を開口部(?)側から。


反対側から。


1号墳は蓋をずらしている?

 

樹木越しに背後の入り江。

 

あとで立ち寄った長島町歴史民俗資料館の敷地の一画に、移設された28号墳が。

 

板石積石室(いたいしづみせきしつ)の祖型と考えられるとのこと。

明神下岡遺跡
明神下岡遺跡は蔵之元小学校から約800m行った海岸部の丘陵上にあります。昭和59年4月、町教委が調査し、30基の墳墓を発見、内11基を発掘しました。その結果、明神下岡遺跡では遺跡の状況や遺物から弥生時代中期(1世紀)から古墳時代の5世紀頃まで、長期にわたり埋葬が行われたと考えられます。
右写真の12号墳は内部に石室があり、周囲に平石が並べてあります。そしてこれで平石でふたをし、最後に支石墓の撑石を思わせる大きな石をかぶせてありました。明神下岡遺跡にはこのタイプの墳墓が多く、これは南九州の板石積石室に構造は似ているものの、築造時期が早いことから、板石積石室(隼人の墓制)の祖型になったのではないかと考えられます。
28号墳(移転復元)は長さ115㎝の石棺状の石室で、築造時期は4世紀頃とされています。
長島町教育委員会