墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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小浜崎1号・2号古墳(小浜崎古墳群) 鹿児島県出水郡長島町蔵之元

前回の明神古墳群・明神下岡遺跡から400mほど南には、小浜崎(おはまざき)古墳群があります。

 

すぐ脇まで道はありますが狭く、長島古墳公園駐車場を利用されるのがよいです(徒歩6分)

 

ここも小さな岬の付け根ですが、明神古墳群とは違って高台にあります。


その説明板。

史跡 小浜崎(おはまざき)古墳群
鹿児島県指定記念物
昭和58年4月13日
この丘陵を小浜崎といい、ここの古墳を総称して小浜崎古墳群と呼ぶ。
この付近には、かつて多くの高塚古墳があったが開墾のため破壊され、現在、鬼塚古墳(1号古墳・2号古墳)、白金古墳、小浜崎1号古墳の4基の県指定古墳と小浜崎2号古墳、楽平古墳の2基の町指定古墳がある。
これらの古墳は、高塚古墳の分布の九州西海岸における南限地帯を示すものとしてたいへん重要である。
長島の高塚古墳
3世紀後半に畿内で発生した高塚古墳文化は、九州北部から南下し、西側では海岸沿いに有明海・八代海を経てついには長島にいたり、南限は対岸の阿久根市から川内川下流付近に及んでいる。
長島は、地形が急峻な島で平地が少なく農耕には不向きであるにもかかわらず、小浜崎古墳群をはじめ、他にも温之浦古墳群や加世堂古墳など数多くの高塚古墳がある。
これは海洋を基盤として政略的な立地条件によるものであろう。
つまり、長島の高塚古墳では横穴式石室が多く見られるのに対し、前方後円墳は全く認められないなど、熊本県有明海・八代海沿岸の古墳文化の影響を受けており、当地方で大きな勢力をもっていた火の君(肥君)一族が、大和朝廷の一翼を担って長島方面へ進出し、しだいに隼人を支配下に治めていったことを示していると考えられている。
小浜崎1号古墳・2号古墳は、昭和39年、三島格氏、池水寛治氏によって発掘調査され、東側から1号古墳・2号古墳と命名された。


小浜崎1号古墳
1号古墳は高さ1.2m、直径4.6m程の積石塚で、現状から考えて円墳に類するものであろう。
石室は割り石の小口積みによる竪穴式石室で、主軸が2.4m、幅1.8m程の長方形である。天井石は石室の北西部にどかしてあった。また、石室の内部を発掘しているとき、側壁より内側に一部別の側壁が見つかったので、この古墳では再埋葬・再構築が行われたことが分かった。
出土品は、盗掘のためか少なく、鉄剣・鉄刀の一部が出土しただけである。
築造年代は、年代を示す明確な遺物の出土もなく難しいが、八代海に面した宇土半島一帯では4世紀の竪穴式石室を持つ古墳があり、1号古墳もその影響を受けたと考えられることから、一応、5世紀と推定されている。

 

きれいな形をした円墳です。竪穴式石室を持ち、開口はしていません。

 

墳丘の前から望む東シナ海。


1号墳の北西隣に2号墳。

 

さきほどの説明板の2号墳の部分。

小浜崎2号古墳
2号古墳は墳丘の直径約15m程の円墳である。
石室は発掘時で既に墳丘の上に露出しており、かなりの破壊を受けていた。石室は長さは2m程でほぼ正方形であり、形の整えられた厚さ10㎝強の平石で造られ、しかも二部屋に区画してあった。これは弥生時代以来の伝統的墓制である組合せ式箱式石棺が大型化し、ついには石室的要素を持つに至った結果と考えられる。
二部屋に区画してあるものは、二つとも屍を埋葬するためのものなのか、あるいは個人墓から家族墓的要素が入り込んできたのかはっきり分からない。
石室の石材は熊本県天草町のものと一致するので、当地から運んだものであろう。
出土品は鉄製品では剣1・刀1・斧1・錐1・鎌1・鏃20以上、それに碧玉製の管玉2などで、これらの副葬品から、5世紀の築造と推定されている。
この古墳は破壊されたので、昭和58年に埋め戻し、復元した。

 

2m×2mの正方形プラン。見慣れない広さ。

 

背後から南東方向。奥は小浜海水浴場です。斜面の段々畑も見事でした。