墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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愛宕塚古墳・八尾市立歴史民俗資料館 大阪府八尾市神立(こうだち)・千塚

前回の向山古墳から徒歩3分に愛宕塚古墳。

 

こんな魅力的な枝道からアプローチ。

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すぐに墳丘の木立が見えてきました。

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”史跡の道”から、いざ。

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すぐ先の右手に墳丘がありましたが、なんと閉鎖中でした。

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グーグルマップのクチコミを読むと、2019年ぐらいから立入禁止になってしまったようです…

 

看板越しに開口部を。

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グーグルマップに出ていた石碑解説板から。

愛宕塚古墳
古墳時代後期の横穴式石室墳である。封土は墳頂部を除いてよく保たれており、墳丘は径約25m、高さ6.5mで、円墳の形状をよくとどめている。
巨石を積み上げた横穴式石室は、奥行16.76m、玄室の高さ4.1mを測り、高安古墳群中最大規模の後期古墳である。
石室は古くから開口していたが、昭和42年学術調査が行われた。遺物では凝灰岩製の家形石棺片、鉄製利器、金張鉄製品、土器のほか玉類、鉄地金銅張馬具など優れた副葬品が多量に残存していて被葬者の地位、性格を物語っている。
八尾市教育委員会

 

別の角度から。玄室の高さ4m以上は大阪府下最大級とのこと。

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愛宕塚古墳から南西に徒歩12分にある八尾市立歴史民俗資料館。

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資料館前のマップより。

生駒山地西麓の道は、大阪における山の辺の道という感じです。

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観覧料は220円。常設の「大和川流域と高安山-その歴史と文化-」の展示には、古墳からの出土品もありますが撮影不可でした。

八尾市立歴史民俗資料館|展示案内

 

エントランスの服飾展示のバックに、巨大な愛宕塚古墳石室内(奥壁から)の写真が!

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当資料館でいただいたパンフ「愛宕塚古墳を知ろう!~聖徳太子の時代と八尾・解説シート」には、愛宕塚古墳の石室が、奈良県天理市の塚穴山古墳と”よく似た”古墳として紹介されていました。

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どちらも石室全長約17mで、石室の大きさは構築方法などに共通性がみられるそうです。

塚穴山古墳(7世紀初め)は直径約65mもある円墳です。愛宕塚古墳(6世紀後半もしくは6世紀末から7世紀初め)は直径22.5m(推定墳丘ラインは径約30m)の円墳ですが周濠を含む直径は約60mに推定されているそう。

 

塚穴山古墳は4年前に、ツアーで訪ねました。

塚穴山古墳 奈良県天理市勾田町 - 墳丘からの眺め

 

パンフには以下も記されていました。

被葬者は、石室規模と副葬品から、有力な氏族の一員とみられます。鉄鏃などの武器も多く副葬されており、また金銅製品が多く副葬されていることから、朝鮮半島とのつながりがある氏族と考えられます。このことから中河内の有力氏族で軍事を司っていた物部氏との関連が指摘されています。

築造時期は、出土した土器や石室の形から、6世紀後半もしくは6世紀末から7世紀初めと考えられ、物部守屋が蘇我氏・聖徳太子との戦いに敗れた時期とほぼ同時期に造られた古墳といえます。

 

副葬品の、「きらびやかな馬具」

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