9月14日の土曜日、東京スリバチ学会の皆川会長が自らガイドする街歩きツアーに参加しました。
運営会社にTABICAが入っていますが、当日は会長一人ですべて切り盛り(充実した楽しいツアーでした。ありがとうございました!)
自分は初参加でしたが、「スリバチ地形ツアー」は過去何度か実施されていて、20名ほどの参加者の8,9割はリピーターのようでした。
赤羽駅北口に14時集合。途中で休憩もありましたが、たっぷり3時間の街歩き開始。
赤羽駅西口の様子。
目の前は商業施設やマンションで見通しがききませんが、後ろには比高差15mほどの台地の端が迫っています。
駅前の道を左(南)に進み、枝道を右に入った先に静勝寺への石段が。石柱には「稲付城跡」と刻まれる。”稲付き”の名は、大水の際に稲が流れ着いたことが由来とも。
静勝寺は、太田道灌の築城と伝えられる稲付城跡に立地。
左の御堂には太田道灌(1432~1486)の木造座像(造立は江戸期の元禄8年・1695)が安置され、毎月26日(月命日)に開扉されているそう。
お堂の横の門を出て。右の坂を下れば石段下に戻る。
門の脇にあった稲付城跡の解説。
東京都指定旧跡
稲付城(いねつけじょう)跡
所在地:北区赤羽西1-21-17 静勝寺
指定:昭和36年1月31日
稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高21m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「堀蹟」として登場します。
現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北西と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約12m、深さ約6mの空堀の跡等が検出され、その際に16世紀前半頃の遺物が出土しました。
静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木造座像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。
平成25年3月 東京都教育委員会
その反対側へ進んで住宅地を少し行くと下り階段に。
坂下までは行かずに途中で右に折れて、
崖に沿った細道を進む。
その先で「谷底」へ。
バス通りを渡った先、崖の手前に亀ヶ池弁財天にて。
要所要所で皆川会長のわかりやすい解説がありました。20人は割と大勢のグループになると思いますが皆さん整然と行動されていて、もちろんガイドの計画力・統率力によるところも大きいですが、”同好の士”が一緒にツアーをつくりあげているような印象がありました。
亀が泳ぐ池。かつての水辺の風景がここだけ残っているようです。
別の日(後述)に見た亀の塊。
そこからは来た道を少し戻ります。
ズームすると先程降りてきた階段。
再びバス通りを東側に渡った枝道を進んで、急坂を登ります。
登り切って振り返って。左には斜度20%の標識が。
下った先で上る地形、そのような谷地形(スリバチ)をめでるのがこのツアーの醍醐味でありました。
ちなみにここは「三日月坂」の名があり、標柱もあったことを後で知りました。
…ということで、翌週に再訪してしまいました。
三日月坂
道灌坂から東南に登り中坂へでる坂です。道灌湯のあたりに、大正3年(1914)帝国火工品製造所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂といいます。工場へ往来する馬車などで賑わいましたが、大正4年5月に工場は爆発事故で焼失しました。その後このあたりは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができました。坂名はこれに由来しています。また、道灌が開業したことから道灌坂とも呼ばれています。
坂上からの眺め。
ズームで距離感を圧縮して。
民家の屋根上に、赤羽台団地の”スターハウス”が顔を出していました(中央のクリーム色)
坂下から。
坂の途中に枝道。
そのあたりから見上げた三日月坂。
坂を上がって右(南)への道沿いに、皆川会長おすすめの和菓子屋さん「喜久屋」
再訪したときの写真。
お団子を買ってお土産としました。みたらし団子、おいしゅうございました。
つづく。