前回のつづき。この日、葉山からの帰路に、池子遺跡群資料館へ立ち寄った(写真も文字も多めです)
京急の新逗子駅から一駅目の神武寺駅で下車。ホームに降りて振り返った新逗子方向。右側にも引き込み線がある。
引き込み線には、左に在日米軍、右に京浜急行との表示があった。
金沢八景方面には短いトンネルが。その手前で引き込み線が分岐。
神武寺駅には構内踏切があり、改札は下り線側にある。
上り線側には米軍関係者専用の出入り口があり、結構頻繁な出入りが見られた。
下り線側にある駅舎から出たところ。
駅前にあったハイキングコースの案内。駅前の神武寺は駅から東に徒歩30分の山中にあった。参拝するには少し遠かったので次の機会とした。
案内図には無かった駅の西側に向かう。まずは線路沿いへ。
線路沿いの道から踏切を渡る。神武寺駅方向。
線路のすぐ西側に並行して、田越川が流れていた。
駅にあった「CFAY」は、COMMANDER U.S. FLEET ACTIVITIES YOKOSUKAとわかった。
ゲートの上にも。
入口ゲートの全体像。
CFAYを右に見ながら資料館の方へ。左には運動場が整備されている。
上記左は「池子の森自然公園 総合案内板」
資料館の先に公園エリアがあるが入園できるのは土日祝の8:45~17:00。
資料館は9時~16時、スポーツ施設は8:45~21:15(いずれも月曜休)とのこと。
運動場の得点板は英語。
資料館の位置。その下の緑の部分にグランドが3つ並ぶ。
現地ではわからなかったが、グーグルアースを見ると資料館の北東側に住宅が現れた。
坂を上っていくと、左は巨大な段々畑のようにグランドが。駐車場は一般でも使用できる。
坂の先の三階建てが資料館だった。
一番手前が入口。
事務的な雰囲気の一階ホール。
3階にあがると、通路の先に展示室があった。
思っていたより広い部屋で資料も豊富だった(入館無料)
以下は、いただいたパンフレットより。
池子住宅地区及び海軍補助施設は、昭和12年(1937)に旧日本帝国海軍の弾薬庫として接収された地域を、戦後にアメリカ軍提供用地としたもので、施設の性格上一般の立ち入りが厳しく制限されてきたところです。
施設の敷地は、逗子市と横浜市にわたる総面積288万㎡までにおよびます。
このうち約85万㎡について、アメリカ軍家族住宅建設の計画が立てられたことに伴い、この工事によって地中に眠る文化財(埋蔵文化財)が影響を被る可能性が高い12万㎡について、文化財の記録を残すとともに出土品を安全に取り上げることを目的として、平成元年(1989)から平成6年(1994)にかけて、神奈川県埋蔵文化財センター及び財団法人かながわ考古財団が発掘調査を実施しました。
発掘調査の結果、弥生時代から近現代に至るまで、この地に暮らした人々の生活を示す痕跡が数多く検出されました。
その内容は、竪穴式住居・掘立柱建物跡などの建築遺構、周溝墓・やぐらなどの墓域、水路・耕作跡などの土木遺構など多岐に及びますが、なかでも特筆されるのが弥生時代の河川跡で、古墳時代までに土砂の流入により埋没したために、埋積土のなかから木製の鍬や斧、機織りの道具、鹿骨製の釣針などの希少な資料が良好な状態で出土しています(後略)
調査範囲を示したパネル(黄色の部分)
公式サイトにも詳しい経緯が書かれている。
最初のケースには先土器・縄文時代の資料。
縄文海進の時期は、ここは海岸線だった。
弥生時代になって海岸線が後退し、川と平野が形成された。
弥生期の石斧など。
もちろん弥生土器も。
南関東・弥生中期後半の典型的な「宮ノ台式土器」の壺。
弥生時代末~古墳時代前期の方形周溝墓から出土した土器棺墓。3つの土器(蓋・胴・底)を重ねた子供用の棺だそう。
池子遺跡を特徴づけるのは、弥生時代の木製品。河道跡の、水分を含んだ土中にあったために腐らずに残った。
弥生中期から後期に移り変わる頃、洪水によると思われる砂礫でこの川は一気に埋没したそうだ。
弥生後期(AD200~300年頃)の遺物・遺構はほとんど無く、3世紀後半の古墳時代前期に新たな開発がこの地に及ぶまでは暮らしの痕跡が見つかっていない。
形の多様性、精巧な作りに驚いた。江戸時代(つまりほんの少し前)と言われても納得しそう。
古墳時代のコーナーもあった。
池子遺跡には古墳そのものはないが、住居跡が見つかっている。
甑(こしき)もある。炊き立てを食べていたのだろう。
大きな木製の鍬や、鉄製の刀子や鎹(かすがい)、斧も。
さまざまな装身具も。
須恵器や卜骨(鹿や猪)も。
横須賀線の南側、桜山麓の持田遺跡集落跡からの出土品も展示されていた。今年(平成30年)逗子市指定文化財となった古墳時代(4世紀後半)の石製装身具。
石釧と大型管玉。製品としての石釧は神奈川県内唯一の出土例精巧品であることから石製腕飾類製作の中心地であった北陸地方か、大形管玉同様に丹沢山塊の細粒緑色凝灰岩を使用した県内工房産の可能性があるとのこと(逗子市調査資料より)
勾玉には荒川上流域産の蛇紋岩・滑石を使用され、産地近郊や常総地域で盛んに製作されたタイプで、古墳時代前期末葉頃と考えられるそうだ。
作りかけもある管玉。
持田遺跡は同時期に築造された長柄桜山古墳群の被葬者を支えた集団の中心的集落で、古墳の副葬用品である石釧や大形管玉の出土は、長柄桜山古墳群築造の背景や被葬者像を考えるうえで重要な資料となる、とも、逗子市の調査資料に書かれていた。
http://www.city.zushi.kanagawa.jp/global-image/units/160297/1-20180328112300.pdf
各時代の市内遺跡分布図も。
池子遺跡からは方形周溝墓は”多数”発見されていた。
こちらは江戸時代の遺物。
昭和初期の遺物も目を引いた。
そんな「遺物」がある訳は、日本軍による強制立ち退きがあったから。
昭和初期の池子
大日本帝国海軍の軍事施設(弾薬庫)建設のため、池子に住む50数世帯の人々は、日中戦争が始まった昭和12年から安く土地を買い取られ強制立ち退きをさせられました。
そのうちの8世帯は猶予期間わずか4~5日だけで移転させられたそうです。
当時のあわただしい立ち退きの様子が偲ばれる、食器や日用品などが多く残されています。
弾薬庫はいくつものトンネルを掘って作られ、大量に出された土砂で、当時田畑だった運動公園のあたりまで埋めたてられました。埋立地は海軍関係者の住宅地として使われました。
参考・引用文献「池子の森ー池子弾薬庫返還運動の記録」逗子市編集
すぐに退去と言われたら、生活必需品しか持てないだろう。
池子は昭和12年海軍の弾薬庫として接収がはじまり、戦後は米国海軍が使用してきました。60年もの間、一般の立ち入りが制限されていたため、明治から接収までの生活の跡が、ほとんど破壊されることなく良好な状態で保存されていました。建築物は切石や土丹(どたん:岩盤を砕いたもの)を利用して造られているのが特徴で、遺物は直前まで池子で暮らしていた人々の日常生活に使われた道具でした。
暮らしの品が出土物になるとは(まあ、古代でも一緒だが)
土器片の実物を触れるコーナーもあった。
近代ものはアメリカの少年が。
公式サイトに非常に詳しい解説がある。
貴重な発掘調査の写真も。
帰り道に見た400mトラック。遺跡地図ではこの一番奥に方形周溝墓が並んでいたはず。
資料館の方からは、今も遺跡として痕跡がわかる場所はなくなっていると伺った。