前回からのつづき。
館腰神社を北に降り、雷神山(らいじんやま)古墳があると思われる台地を西側から上ることにした。
歩道のない2車線道路を歩いていくとゴルフ練習場に出た。この奥を右折して上っていった。
途中の民家の庭先では桐の花が満開だった。
住宅地に出たら看板があった。サイクリングで来るにはちょっときつい坂の上。
史跡公園の入り口に着いた。広い駐車場がある。
公園入り口。まだ古墳は見えないが、期待が高まる。
入り口の広場には詳しい説明板があった。心を落ち着かせるために、まず読もうと思ったが、結局写真を撮ってすぐ、足早に上っていった。
案内マップは下記の通りだが、スケール感は実際にその場に立たないとわからない。
坂をのぼると巨大な後円部と、隣の円墳との間に出た。
思わず「おおっ」という声を漏らしてしまう。
・雷神山古墳(らいじんやまこふん)前方後円墳 全長168m 4世紀末~5世紀初
東北最大の前方後円墳。遠見塚古墳の、ほぼ1.5倍の大きさであることは興味深い。
後円部の先端。
後円部下から前方部。2段目の高さは人の背丈以上ある。
敷石に沿って周囲を廻る。きれいに整備されている。
くびれ部と後円部。後円部に樹木があるが密生していないので墳丘の形がわかる。
敷石の見学路。
見学路に沿って前方部2段目の上に上る。
前方部の先端は、形が改変されて墓地になっている。
墓地からは木々の隙間を通して、台地下の水田が見えた。
前方部の上から西側方向の眺め。空が広い。
前方部の墳丘上は平坦な芝生の広場のようになっており歩きやすい。
千葉県最大の内裏塚古墳(144m)より大きい。
この大きさで、かつ、このような見晴らしのよい場所にあるということは、施主(被葬者)の力の大きさとともに「素晴らしさを感じるポイントが同じところにある」ことを感じる。
東側方向の眺めは木にさえぎられているが、ところどころ水田が顔を覗かせる。
くびれ部のカーブ。のぼり道がついている。
後円部上を見上げると、青空に松の木。
後円部を上る小道には、葺石と思われる石があった。
後円部墳頂から前方部。先の形は墓地があるので明確ではない。
海側(東側)の眺め。木々が開けた場所があった。
山側(西側)の眺め。この場所が北から続く舌状台地上にあることがわかる。
後円部上も平坦な広場のようになっている。
後円部上から、東側に下る見学路。
見学路は「周堤」へと、そしてその先の「小塚」へと続く。
周堤から、左は後円部の端、正面が小塚。
周堤が切れている箇所から台地下へ下れそうな山道があったが、荒れていたので引き返す。
小塚の前では2人の少年が野球の練習をしていた。
練習の邪魔をしないように遠回りに小塚古墳(円墳)に近づいた。ここには「周庭帯」や「周湟」の表示がある。
小塚古墳から見た雷神山古墳後円部。大きい!
墳頂の平坦面は少ない。
北側から見た小塚古墳。見学路の敷石は周堤上を廻っている。
小塚古墳の北側、墳丘の裾からの眺め。
説明板に戻る。この一帯は、一大古墳地帯だった。以下説明板より転載。
・名取市内の古墳分布
名取市は仙台平野の南部に位置し、東北最大規模を誇る前方後円墳の史跡雷神山古墳(主軸168m)をはじめ、高塚古墳が密集する「古墳の里」である。
市内における古墳の分布は、西部の高舘・愛島丘陵から分岐して平野部に突出する箕輪、野田山、小豆島の小丘陵地帯及び北部の旧名取川氾濫源の自然堤防上並びに東部の太平洋岸沿いの海岸砂丘(浜堤)にそれぞれつくられている。これまで現存する主な古墳について丘陵地帯では、古墳時代初期の墓の形態である方形周溝墓群(高舘北台の今熊野遺跡、小豆島五郎市遺跡)をはじめ高舘山古墳(全長60mの前方後円墳)、名取大塚山古墳(全長90mの前方後円墳)、塞の窪古墳群(小型前方後円墳と円墳など20余基からなる群集墳)、宇賀崎古墳群(低墳丘墓や方墳からなり仙台平野の古墳文化形成期の古墳群)、史跡飯野坂古墳群(5基の前方後円墳と2基の古墳からなる)、史跡雷神山古墳などが分布している。
また、自然堤防上の古墳としては、上余田の天神塚古墳(方墳で埴輪壷破片出土)がある。さらに海岸砂丘に造営された古墳には下増田の経ノ塚古墳(現存しない)、毘沙門堂古墳(直径50mの円墳で円筒・朝顔型埴輪出土)、雷神塚古墳(直径30mの円墳)、館腰の温南山古墳(全長40mの帆立貝式古墳)などが確認されている。このように本市では、現在50基以上の高塚古墳が存在し、形態的にも方墳、円墳、前方後円墳、帆立貝式の前方後円墳など様々で、ほかに凝灰岩をくりぬいた横穴墓群も4地区で発見されている。
周辺写真部分のアップ。全部回るには数日かかりそう。
雷神山(らいじんやま)古墳の説明板。以下に転載。
雷神山古墳はその規模において東北最大の前方後円墳である。この古墳が最初に紹介されたのは昭和5年松本彦七郎博士により「植松丘上主古墳(うえまつきゅうじょうしゅこふん)・副古墳」として報告された。その後昭和25年宮城県史編纂委員会の委託により伊東信雄博士等の測量調査が行われてから一般に知られるようになった。ちなみに「雷神山古墳」と命名された由来は古墳頂部に雷神を祭った祠がありそれにちなんだものである。史跡指定後は昭和46~50年度に渡り指定地58.232㎡の公有化、昭和50~52年度にかけ環境整備の基礎資料を得るために墳麓線及び周湟確認調査を行った。その結果この古墳は全長(主軸)168m、後円部直径96m、高さ12m、前方部長さ72m、高さ7.2m、前方部前端幅96mの3段築成で葺石を伴うが本格的な周湟はめぐらされていない。また、この古墳の北側には直径54m、高さ8mの三段築成で周湟を有する小塚古墳(円墳)が所在する。
これら丘陵上に造営された壮大な大型古墳の年代は、古墳の立地や築造方法、さらに出土遺物で埴輪壷、底部穿孔壷型土器など発見されていることから前期古墳の特徴的要素を伝えているものとして4世紀末~5世紀始め(西暦400年前後)と考えられる。
なお、これらの古墳は東北の原始・古代社会における文化の黎明を担い仙台平野一帯を統治した地方豪族の首長墓である。
調査時の写真も載っていた。
北側にも出入り口があり館腰駅へはこちらの方が近かったかも知れないが、現地では気づかず、来た道を帰った。水田はカエルの合唱だった。
館腰駅のホームから見える、雷神山古墳のある台地。台地の端が線路に並行しているので車窓からも見えるが、古墳の形は木々に隠れて見えなかった。
このあと、特別史跡の多賀城に行こうか迷ったが、すでに17時に近く、東北歴史博物館見学も間に合わないので別の機会とし、新幹線で帰った。
「国府多賀城駅」は仙台から東北本線を北に4駅で、雷神山古墳から直線距離で北東に20kmほど。中間地点に遠見塚古墳がある。
両古墳の時代が西暦400年前後、そこから多賀城創建(724年)までは300年ほど、坂上田村麻呂が来るのは802年なので400年も後のことになる。
多賀城は奈良時代に大和朝廷が築いた対蝦夷の前線基地だが、これらの古墳に眠る人は、ここから見渡せる風土に愛着があった「地元の人」のように感じた。
参考文献
今回は下記の本にお世話になった。東北の古墳の知識はゼロに等しかったのでとても参考になった。以前から「関東古墳散歩」の方は読ませていただいていたが、東北版もあったことは知らなかった。
「東北古墳探訪」では個別の古墳の紹介はもちろんのこと、東日本全体の古墳時代の歴史を概観する説が展開されていて大変興味深かった。
- 作者: 相原精次,三橋浩
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