墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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大類1号墳(苦林古墳)・大類2号墳 埼玉県入間郡毛呂山町大類

前回の十社神社から250mほど北に大類(おおるい)1号墳、その100m西に大類2号墳。可愛らしい前方後円墳が2基残っています。

 

額田大玉さんのマップがわかりやすいです。

大類古墳群

 

大類1号墳を東側から。

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周囲が削られて、くびれ部がわからない現況ですが、こちら側が後円部のようです。高さはしっかりあります。

 

墳頂に説明板。

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ピカピカでした。

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毛呂山町指定 記念物 史跡

苦林(にがばやし)古墳
昭和39年5月1日指定

埼玉県指定旧跡
苦林野古戦場
昭和36年9月1日指定

毛呂山町指定 有形民俗文化財
苦林野合戦供養塔
平成27年3月19日指定

越辺川右岸の毛呂山町川角から坂戸市塚原の台地上には、古墳が100基以上分布し、苦林古墳群と呼ばれています。苦林古墳群は、県内では行田市埼玉古墳群に次ぐ前方後円墳の密集地であり、苦林古墳は、現存約23mの古墳時代後期の小型前方後円墳です。
苦林古墳群一帯は、中世の頃から苦林野と呼ばれ、合戦の舞台となりました。貞治2年6月(1363・一説に貞治4年)、鎌倉公方足利基氏の軍勢三千余騎と前越後守護職宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可の嫡子高貞、次男高家の軍勢八百余騎が苦林野で激突しました。
「太平記」の「小塚の上に打ち上りて…」とある小塚は苦林古墳といわれています。
苦林古墳の上には、江戸時代の文化10年(1813)銘の千手観音の石仏があります。背面には古戦場の由緒を刻み、両側面には六体の仏を文字で表しています。浮彫の千手観音像を合わせた七体を日を違えて順次本尊として祭ったと考えられる珍しい七夜待塔で、苦林野合戦の戦死者供養のため、里人により建立されました。
平成29年3月 毛呂山町教育委員会

 

説明板にあった石仏。

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墳丘から南東方向。

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前方部の左裾側から。奥に後円部。

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1号墳の北側の小道を西へ向かうと2号墳(中央奥)

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この道は市町村境界で、左が毛呂山町、右が坂戸市です。

 

道の右側のこちらの土盛り。隣家の方に聞くとこちらも古墳(塚原古墳群)だそうです。

この坂戸市の塚原古墳群と、毛呂山町の大類古墳群を合わせ、苦林(にがばやし)古墳群と呼ぶそうです。

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マップでは右奥の林の中に塚原1号墳~3号墳のピンが立っていますが、入れる感じではありませんでした。

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その先に大類2号墳。小ぶりですが愛くるしい姿。

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後円部側から。

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前方部端から。

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前方部から後円部を。

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後円部から前方部を。

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墳丘から東方向。

左寄りの平たい白い屋根の後ろが1号墳です。

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さきほどの額田大玉さんのサイトでは、近くの3、4、5号墳も紹介されています。

ストリートビューでも見れました。

 

毛呂山町歴史民俗資料館でいただいた解説シートによれば、毛呂山町には91基の古墳があり、大類古墳群は前方後円墳2基を含む39基が見つかっているそうで、毛呂山では一番古い古墳群とのこと。

川角古墳群には38基あり、鉄刀や腕輪、耳飾りが出土。

14基を擁する西戸古墳群は3つの古墳群で一番新しく、毛呂山町の古墳は越辺川の上流に向かって作られたようです。