墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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高尾山古墳(辻畑古墳) 静岡県沼津市東熊堂・西熊堂

前回のつづき。

香貫山から沼津市街の北側へ、昨今全国ニュースでも時々取り上げらている高尾山古墳へ向かった。

墳丘に隣接して熊野神社がある。 

 

東日本で最古級、かつ初期古墳としては最大級の大変貴重な古墳。

邪馬台国と対抗していた狗奴国(くなこく)の有力者の墓とする説もあるとのこと。

前方部から後方部方向を参道脇から。

沼津市のサイトによれば、築造年代は西暦230年頃で埋葬が250年頃と判断されるとのこと。埋葬部から出土した金属製品などは250年頃のものと推測されるが、周溝から出土する土器は230年頃から250年を過ぎるものまで存在し、墳丘内部の土器は230年頃のものに限定されることがその根拠。

古墳時代の始まりとされる箸墓古墳が250年頃の築造なので、当古墳は畿内統一的王権の成立以前に東国でも独自に古墳時代へ移行しつつあったことを示している。

http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/kofun/takaosan.htm

 

現地の説明板は簡素。

高尾山古墳(前方後方墳) 古墳時代初頭 全長約62m
墳丘高:後方部約5m 前方部約1m 周溝幅:約8m

 

四角く盛り上がった後方部墳丘。

最近まで後方部上に高尾山穂見神社が、前方部には熊野神社が鎮座していたが都市計画道路が建設されることになって神社は隣地へ移転、発掘調査で全長約62m(後方部約31m、前方部約31m、周溝幅8~9m程度、ただし南端は2m前後)の前方後方墳であることが確認された(前出の沼津市サイトより)

墳丘の築成は、尾根を旧石器時代の地層まで平坦に削平してから、黒色土を1m、さらに4mほど版築で盛り土している。

後方部上からは、舟形木棺(東西幅約5.1m、南北幅約1.3m)を直葬したと考えられる南北約5m×東西約6mの墓坑が見つかり、副葬品として破砕鏡(上方作系浮彫式獣帯鏡)1面、勾玉1点、ほか鉄製の武具及び工具等が出土した。

周溝からは当地域の大廓式土器の他、東海西部系、北陸系、近江系土器も出土している(沼津市の同サイトより)

 

グーグルアースで見ると前方後方墳の形状がよくわかる。西側の道路や神社参道で若干墳丘が削られているが、直前まで整備された計画道路は墳丘の中心を通る。

 

墳丘の西辺、くびれ部あたりの横を通る現在の道路から。

 

参道は計画道路に沿っていて、 つきあたりは穂見神社。

 

熊野神社社殿は参道の右手にあった。

 

計画道路が迫る墳丘の北側。

市のサイトでは「現地保存を模索している」状況だが結論は出ていない。

http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/takaosan/index.htm

https://mainichi.jp/articles/20170831/ddl/k22/040/326000c

 

ビニールシートの端で、庚申塔が顔を出していた。

 

奥宮の前から東方向。

当地が周りより高く、愛鷹山から南に延びる尾根の末端にあることがわかる。

 

奥宮前から参道方向。右の木の後ろが高尾山古墳。

 

北側、後方部の先から見た墳丘。 

 

振り返ると工事が中断した道路。

 

道路の上の高架は新幹線だった(新幹線がこの場所を通らなくてよかった・・・)

この古墳は新幹線の車窓(海側)からも一瞬見えるということになる。

 

上記位置から左に視線を移すと高尾山古墳。

道路計画がなければ神社の下の墳丘が発掘調査されることはなく、ここが特に貴重な古墳であることはわからないままだったが…

1800年近く前の大変貴重な土木構造物であり、今後ますます重要な意味を持つ可能性がある祖先の墓でもある。なんとか残していただきたい。