墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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陸軍境界標石 近衛歩兵第三連隊跡 東京都港区赤坂

赤坂を歩くに際して参考にさせていただいたガイドブック「おれの細道」には、”戦跡”が紹介されていた。

一つ目は、鈴降稲荷の近くの自販機の横。

 

「陸軍」とはっきり残る境界標石がある。

 

鈴降稲荷の看板の下も花崗岩のようでそれっぽいが確認できなかった。 

 

陸軍の標石は市谷亀岡八幡の裏道(現在は防衛省との境)にもあった。 

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こちらは赤坂パークビルの北側の公開空地。 

 

その一画の木々が茂る。

 

プラタナスの巨木の先に碑があった。左には「銀杏ヶ丘」と刻まれた石柱がある。

 

その先に「近衛歩兵第三聯隊跡」 の碑があった。

 

左側には解説板。

記念碑に添えて
近衛歩兵第三聯隊は、明治18年7月3日霞ヶ関に創設され、10月27日軍旗を拝受した。明治24年5月、周縁を桜に囲まれ赤煉瓦三階建兵舎二棟が立つ、赤坂台上の新兵営に移転した。全国から選ばれた近衛兵達は、この兵営で49年間、練武に励み、禁闕守衛の大任を果たし、日清・日露の両役に出征して偉勲を樹てた。又、支那事変以降は昭和15年6月出征、中国の広西・広東両省南部仏印、シンガポール、北部スマトラ、アンダマン・ニコバル諸島方面に転戦し、この間、補充隊は檜町兵営に移転して業務を遂行したが、昭和20年8月の終戦により、本体はスマトラに於いて軍旗を奉焼し、補充隊とともに60年の歴史を閉じた。
昭和37年秋、赤坂兵営のシンボル銀杏ヶ丘に、聯隊跡記念碑を建てたが、土地開発の進展に伴い、三菱地所のご厚意により、老銀杏とともに、ここに移され安置された。
平成5年7月 近衛歩兵第三連隊聯隊会

 

後ろの石材で囲まれたスペースに銀杏の老木が残っていた。

 

東京時層地図のアプリの大正5~10年の陸地測量部の地図を見ると、この台地一帯が近衛歩兵第三聯隊の敷地であったことがわかる。

 

同じ場所の現在(国土地理院地図)

赤の斜線で示される高層建築群が近衛歩兵第三連隊跡になる。右上から赤坂Bizタワー、赤坂BLITZ、TBS放送センター、その左上に赤坂パークビル。

 

大正期地図の中央に丸で囲まれた星印は「旅団司令部」の記号。

現在の一ツ木公園あたりには近衛歩兵第二旅団司令部があり、近衛歩兵第三連隊と近衛歩兵第四連隊(現在の神宮外苑の南西、國學院高校のあたり)を統率していた。

一ツ木公園に立つ沿革案内には「赤煉瓦3階兵舎は町の名物であった」と記されている。

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赤煉瓦3階兵舎は先ほどの地図では長辺100m以上はある。画像を検索するとヤフオクに出品されている古い写真や絵葉書を見ることができた。

 

赤坂の花街としての発展は兵舎の膝元にあったことにも因るのだろう。

 

近衛歩兵第一・第二聯隊の記念碑は北の丸公園内の武道館の近くに立っている。

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