墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

一ツ木公園 丹後坂 鈴降稲荷 東京都港区赤坂

前回にも載せたこの写真。

右への三分坂ではなく、正面の都営アパートの方へ少し上がって右側へ進む。

 

すると、港区立の一ツ木公園がある。

 

台地の先端にあり、見晴らしがきく場所もある。

奥の緑の小山は種徳寺の墓地。

 

公園内に沿革案内があった。明治になってから、軍の施設が置かれた場所だった。

公園附近沿革案内
この公園の附近は江戸時代、広島藩松平(本姓浅野)家の下屋敷であった。
一ツ木の地名は、むかし、奥州街道がこの地を通過し、人馬の往来が絶えない。それで人継村といったのを鎮守氷川神社の神木が一本の銀杏の大木であったことから、一ツ木と読み改めたという説などがある。
この高燥の台地には、維新後、明治26年5月20日、近衛歩兵第三連隊が移転してきた。赤煉瓦3階兵舎は町の名物であった。この公園の部分は、その連隊に隣接する近衛歩兵第二旅団司令部跡である。その後日清、日露をはじめ、いくつかの戦争をへて、昭和20年この台地の連隊が姿を消したのちは、現代を象徴する東京放送などの登場となった。昭和34年3月25日港区立公園として開園した。

 

公園の南縁に沿うような通路があった。

 

下を見ると急斜面。15mほどの高低差になっている。

 

長い階段がついていた。

 

 下に一ツ木公園の碑銘があった。

 

階段の下は赤坂通りに出る。

 

いい階段道だったので上り返した。最初の踊り場から右方向、TBSの敷地になる。

 

階段は左側通行。

 

赤坂通りの面したビルの裏面。 

 

台地上へ行って赤坂パークビルの東側の人工的な坂を降りてみた。

 

途中で階段道を選ぶ。

 

台地下の住宅街を北へ向かうと100mほどで別の上り階段があった。 

 

上ってから振り返ったところ。

 

道なりに90度右に折れて進むと、見通しのいい開発予定地があった。

 

大和ハウスによる地上11階の(仮称)プレミスト赤坂4丁目共同住宅2019年3月末に建つ。

 

突き当たって右に、目的地としていた丹後坂があった。 

 

いい雰囲気に古びている標柱。

たんござか
元禄(1688~)初年に開かれたと推定される坂。その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいう)の邸があった。

 

坂上側。この先は牛鳴坂を経て青山通りにつながる。

 

丹後坂には斜路もついていた。

 

坂下から。下の方が幅が広くて遠近法的効果がある。

 

丹後坂に面した道。右に台地、右後ろに丹後坂。

 

その道に面した工事現場。

 

こちらは地上9階建の「赤坂見附・REMマンション新築工事」

台地の上でも下でもマンション建築中。

 

谷状の低いところはかつては黒鍬谷と呼ばれていたそうだ。戸建ての住宅が多かった。

 

谷の南縁、TBS側の台地下に沿って進むと、鈴降稲荷のサインがあった。

 

関係者以外立入禁止とあったので、遠くからお社を。

もとは四谷仲殿町にあったが元禄8年に社地が御用地となったのでこちらに遷座関東大震災で拝殿、土蔵が被災したので氷川神社境内稲荷社へ合祀されたとのこと。

 

さらに進むと再び東京パークビルの麓に出た。

 

旧町名由来板があった。

赤坂一ツ木
永禄10年(1567)に、武州豊島郡貝塚領人継原を開発して人継村となり、天正18年(1590)の徳川家康の入府に際して、服部半蔵などで知られる、江戸城の警護等に当たった伊賀者の給地に下されて百姓町屋となりました。
元禄9年(1696)頃から、一ツ木村を「赤坂一ツ木町」と改めましたが、ほかに飛地が5ヶ所ありました。町奉行を務めた大岡越前守の下屋敷があったことも知られています。明治44年(1911)には赤坂の冠称を除いて「一ツ木町」となりましたが、昭和22年に「赤坂一ツ木町」となりました(後略)

 

赤坂丹後町
赤坂掃除町の一部と武家地を合併して、明治5年(1872)に「赤坂丹後町」となり、明治44年(1911)には赤坂の冠称を除いて「丹後町」となりましたが、昭和22年(1947)に「赤坂丹後町」となりました。
町名は、町内に丹後坂があることによります。丹後坂は、長さ24間、幅4間半(1間は約1.8182m)あり、元禄元年(1688)に開かれたと推定される坂です。その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいいます)の邸があったので呼び名となりました。坂下には、江戸城内の修築作業等に従事する黒鍬組の居宅が多くありました(後略)

 

階段の上から。