前回のつづき。
赤坂氷川神社から本氷川坂を降りて南西に回りこんでいくと、赤坂レジデンシャルホテル。現在はホテルではなく部屋の大半はマンションや事務所となっているようだ。
上記の曲がり角の背面にあった階段&スロープ。
階段の先は行き止まりだった。
元の道に戻り、道なりに左折すると2車線の坂道・檜坂があった。
少し古くなってきた標柱。
ひのきざか
江戸時代には、檜の木が多いため、檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸(旧防衛庁檜町公園)に添う坂であった。
檜町公園側に赤坂檜町の説明板があった。
赤坂檜町(あかさかひのきちょう)
古くは今井村のうちでしたが、寛永(1624~1644)以後、萩(長州)藩毛利家、松江藩松平家、山家藩谷家の屋敷地となり、幕末まで大きな変化はありませんでした。萩藩毛利家屋敷は元治元年(1964)、幕府と萩藩とが対立したため、召し上げとなっています。町の北部に麻布今井町年貢町屋がありました。これはかつての今井村の百姓家に由来すると思われ、承応3年(1654)頃にはこの町屋が今井本村と呼ばれ、中心的な位置をしめていたようです。
明治5年(1872)、麻布今井町年貢町屋と武家地を合併して、「赤坂檜町」となりました。町名は毛利家邸内に檜が多く檜屋敷と呼ばれていたことに由来します。
明治になって、町内の南東部三分の二は陸軍省用地となり東京鎮台歩兵営がおかれ、後に歩兵第一連隊となりました。
西部は明治20年(1887)頃は空地や畑だったようで、明治末頃までには大部分が住宅地となり、北東隅には、わずかに商店がありました。
戦後は、歩兵第一連隊が進駐軍に接収されハーディバラックスという兵舎となりました。昭和37年、アメリカから敷地が返還され、跡地には平成12年まで防衛庁が置かれていました。
そのそばにあった周辺案内図。これまで歩いてきた坂名がすべて書き込まれていてちょっとした感動があった。
檜町公園への上がり口の右側に歩行者専用の坂が。
なかなか傾斜が急で階段もついている。
坂の途中で振り返ったところ。
坂上には港区立赤坂中学校の入り口があった。
南側は檜町公園。年末には青いイルミネーションが一面に敷かれる広場。
奥のビルは東京ミッドタウン。
そのまま公園のある台地縁の歩道を進み、21_21 Design Sightの横を抜けていくと、台地下に連絡する通路の入口がある。
右手が来た道で、左に入っていく。
私有地のような駐車場の先に細道が。
いい感じの曲がり具合と蔦の絡まり具合。
その先に続く石段。
石段を降りて振り返ったところ。
降りた先は公園だった。
「生長の家 赤坂いのちの樹林」は木曜日と祝祭日等以外は7時~16時半で開放されている。山梨県に移転する前に宗教法人の拠点あった場所のようだ。
正面に回ってゲートの上から。台地の斜面が公園としてきれいに整備されていた。開いている時間に再訪したい。
赤坂通り側から見た入口。
赤坂通りを東へ歩いていくと、台地上に上がる鋭角の枝道があった。
近道となる階段も完備。
手すりがよく光っている。
石段の先の上り坂から振り返って。コンクリの防護壁は年代モノの雰囲気だった。
その先を進むと赤坂レジデンシャルホテルの裏手に出た。奥の上りが檜坂になる。
檜町公園の池。なかなかの大きさ。
遊歩道はアジサイで彩られていた。