墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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北十間川〜吾嬬神社 東京都墨田区立花

平井浅間神社(逆井の富士塚)のすぐ近くに、旧中川を渡る人道橋「ふれあい橋」があった。

 

ふれあい橋からのスカイツリー。

 

渡った先の土手は、アジサイで覆われていた。

 

この後、亀戸中央公園に入り、そのまま川沿いに進むと川の合流点に来た。

正面が旧中川上流で、左が江戸初期に開削された運河・北十間川(きたじっけんがわ)になる。北十間川の北側は墨田区になる。

 

北十間川に沿って北東方向へ。東武亀戸線の踏み切りを渡る。鉄橋の下は北十間川。

 

川面まで降りられる遊歩道もあった。北十間川はスカイツリーの麓を通って隅田川につながっている。

右が墨田区で左が江東区。この先で交差する横十間川の向こう側は左も墨田区になる。

 

以前に撮った、スカイツリーから眺め。上記の写真は中央の北十間川が奥で右に折れる手前の位置から撮っていることになる。

 

行ったのは去年の正月。きりっとした寒さが懐かしい。

massneko.hatenablog.com

 

少しズームで。スカイツリーまでの距離は1.7kmほど。

 

川沿いの道に面して吾嬬(あずま)神社があった。明治通りの少し手前(東側)

 

参道は川を向いている。一旦傾斜を下る。

 

境内から振り返ったところ。 

 

なかなか広い境内。

 

周囲から小島のように高くなった場所に社殿がある。

古墳の雰囲気が色濃く漂う土盛りだが東京都遺跡地図で調べると、縄文後期の「墨田区No2遺跡」と記されてるだけだった。縄文土器が出土している。

 

拝殿に参拝し振り返ったところ。

 

拝殿の左手に説明版を伴う石碑があった。

 

その説明板。

墨田区登録文化財 吾嬬森碑(あずまのもりひ)
所在地:墨田区立花1-1-15 吾嬬神社内
この碑は、明和3年(1766)に儒学者山県大貮(やまがただいに)により建立されたと伝わります。「吾嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森のひとつとして「葛西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切にしてきたことなどが刻まれています。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
神木とは、墨田区登録有形文化財である「連理の樟(れんりのくす)」のことです。一つの根から二つの幹を見せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。左の絵は広重の作品「江戸名所道化蓋 吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です・
明治43年(1910)の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根ざした伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。
平成21年1月3日 墨田区教育委員会 

 

作品名で検索すると、海外の方が作ったUkiyo-e Searchというサイトに行き当たった。 

https://ja.ukiyo-e.org/image/metro/025-C003-036

 

国立国会図書館のサイトでも、広重が描いた別の2枚が見られる。

http://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/azumajinja/

 「江戸近郊八景 吾嬬杜夜雨」

吾嬬杜夜雨を新しいウィンドウで開きます。

 

「名所江戸百景 吾嬬の森連理の梓」安政3年

吾嬬の森連理の梓を新しいウィンドウで開きます。

 

上記サイトには、吾嬬の森についての言われも紹介されていた。塚は日本武尊が付近に流れ着いた弟橘媛の遺品を集めて築いたもので、連理の樟は日本武尊が地に刺した箸が育ったものだという。

 

社殿の裏手には柵があり、解説が掲示されていた。

 

その解説。

墨田区登録文化財 狛犬 安永二年五月銘
所在:墨田区立花一丁目一番 吾嬬神社
この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。そのほとんどが築地小田原町(中央区築地6・7丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながりをよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています。
日本の神話に、日本武尊命が現在の東京湾を舟で渡っている時に海神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛が海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。
また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。
現在、鉄柵の奥にあるために近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。
平成9年3月 墨田区教育委員会 

 

柵越しの狛犬。

 

 力石も置かれていた。

 

拝殿の前には神樟。

 

縁起が達筆で記されていた。

 

社殿の右側には福神稲荷大明神。 

 

福神稲荷の由緒。

福神稲荷神社
御祭神:宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命
当社は元亀戸四丁目地蔵川岸のほとりに鎮座していましたが(1922)吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました その後第二次世界大戦の災禍をうけ周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張りました 吾嬬神社復興事業(1946)執行の折社殿を現在の場所へ再び御遷座申し上げ此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居ります 尚この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であります 平成9年6月 以上

 

再び境内広場から見上げる「塚」

 

社殿背面の北側。2~3mの高さの擁壁になっていた。

 

北東の角。

 

明治通り沿いにも昭和の雰囲気が残っていた。

 

ここから北東に500mほどのところに東武亀戸線の「東あずま駅」がある。

以前その駅名を見て、なぜに漢字とひらがなの繰り返し?と思った記憶があるが、吾嬬神社の東にあることで「東吾嬬」の意味だった。