墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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橘樹神社 長屋門 「史跡めぐり 古代の橘樹をゆく」ツアー・5

前回のつづき。 

子母口の富士見台古墳から台地を下る一行。

 

たちばなの散歩道というコースを歩いている。

 

趣のある坂道は橘樹神社とは逆の能満寺へ向かう方向。

 

台地の縁の道を歩く。対岸の台地との間には矢上川が流れる。

矢上川を4kmほど下ったところに、かつて90m級の前方後円墳が2基存在している。

観音松古墳跡 神奈川県横浜市港北区日吉 - 墳丘からの眺め

白山古墳跡 夢見ヶ崎・加瀬台古墳群探訪その6 神奈川県川崎市幸区南加瀬 - 墳丘からの眺め

 

住宅街を歩いていくと、村社・橘樹神社があった。

 

大きな神社ではない。しかし「橘樹(たちばな)」の名前がしっかり残っている。

 

きちんと修繕の手がはいって大切にされている社殿。嘉永4年に建てたものを昭和42年に改修・再建している。

 

石碑の前の狛犬(?)は子持ちタイプ。

 

いただいたパンフには橘樹神社の成立の謎が記されていた。

橘樹神社は文献等により、中世までは確実に遡れることが明らかになっていますが、それ以前の状況については、全くわかっていません。弟橘媛伝説を残す神社は各地に見られ、南関東地方だけでも、橘樹神社と合わせて6ヶ所が知られています。伝説との関係はどうなのか?郡の名前を冠しているのは何故なのか?古代橘樹郡の歴史を解き明かす、重要な場所かも知れません。

 

公式サイトたちばな神社ホームページには、橘樹郡の名前が、橘樹神社の名に由来するとある。

橘樹神社は古くに立花杜とあり、「村の西に寄てあり、祭神は日本武尊、弟橘媛の二神なり…」と古書にも書かれていますように、ご祭神は日本武尊、弟橘媛の二神であります(参考文献:新編武蔵風土記稿より)
また、橘樹郡の名起こりもここから来ていると伝えられています。

 

川崎市教育委員会のサイトには、弟橘媛の櫛が流れ着いたのが橘樹神社で、櫛を治め置いて御陵としたのが子母口富士見台古墳、という橘樹神社の社伝を紹介している。

 

姫の名、土地の名が、どのようにつながるのか、大変興味深い。

 

以前に千葉県市原市の島穴神社を訪ねたとき、茂原市に橘樹神社があることを知ったものの未探訪。


日本武尊と弟橘媛が海を渡ろうとしたのは三浦半島の走水~内房の富津の間だと思っていたが川崎にもその伝説があったとは。

確かに地図をよく見ると、南風に煽られて北上したらここに流れ着いたかも知れない。


神社のそばの新築の戸建てハウス。

以下はいただいたパンフより。この場所もかつての郡衙跡だったのかも知れない。

橘樹神社の東側や北側で実施された発掘調査で、奈良時代の大型倉庫跡や掘立柱建物跡が発見されており、子母口の地も、千年の橘樹郡衙や野川の影向寺と同時期、橘樹郡の中心的な場所であったと推測されます。特に蓮乗院北遺跡で発見された総柱建物跡は、橘樹郡衙正倉院の正倉とほぼ同規模の倉庫であることから、郡衙正倉院別院の可能性も考えられています。

 

ツアーの最後に向かう場所は子母口貝塚。

その道すがらに立派な長屋門があった。

 

個人のお宅なので敷地の手前から。

つづく。