前回のつづき。
夢見ヶ崎の天照皇大神社から傾斜の急な石段を降りる。
石段の途中から。夢見ヶ崎の尾根が少し伸びていた。
かつてはさらにその先に、白山古墳(はくさんこふん)があったはず。
台地上にあった全体案内図(再掲)
急階段を下りて振り返ったところ。
南西側につづく小道。
石段の一番下から振り返ったところ。
さらに2車線道の近くまで行って振り返った夢見ヶ崎(加瀬山)
2車線道を西へ向うと、道路沿いにお屋敷がある。
そのお宅の裏手あたりの住宅地。公園にあった案内図とスマホ地図を重ねると、このあたりに白山古墳があったのではないか。
住宅地沿いを歩いていくと、その裏手に気になる土盛り(名残り?)もあった。
開発により消滅した白山古墳(はくさんこふん)は4世紀後半に築造された全長87mの前方後円墳だった。
以下は白山古墳 - Wikipediaより。
白山古墳は多摩川と鶴見川に挟まれた、標高約33mの台地上に造られた。全長87m、後円部径42m、同高10m、前方部幅37m、同高5mである。白山古墳からは埴輪は出土していない。埋葬施設として、前方部に1基の粘土槨、後円部に1基の木炭槨と2基の粘土槨が見出された。築造時期は4世紀後半。
白山古墳に続いて、約750m西側の矢上川対岸に、白山古墳とほぼ同じ大きさの観音松古墳が造られる。観音松古墳も白山古墳と同じく、開発のために削平されて現存しない。
1937年、慶應義塾大学によって発掘が行われた。後円部の木炭槨から、三角縁神獣鏡1、小形内行花文鏡1、刀身3、剣身6、鎌身1、鉄鏃28、刀子1、鉄斧頭5, 前方部の粘土槨から、櫛歯文鏡1,管玉1,小玉4, 前方部北の粘土槨から、珠文鏡1,乳文鏡1,勾玉1,管玉6,小玉67, 前方部南の粘土槨から、管玉2,丸玉1,小玉10が出土するなど、副葬品は豊富であった。木炭槨から出土した三角縁神獣鏡は、椿井大塚山古墳で出土したものと同笵鏡であり、白山古墳の被葬者と畿内との結びつきが想定される。
昨年1月に横浜市歴史博物館で見た展示で、白山古墳(または観音松古墳)のかつての雄姿の写真を見た記憶がある。
平成26年度横浜の遺跡展「古墳の出現-横浜の集落遺跡と前期古墳ー」、及び関連講演会「ヤマタイ国時代の東日本」 @横浜市歴史博物館 - 墳丘からの眺め
川崎市幸区のサイトにも、わかりやすい説明があった。
白山古墳(現・白山幼稚園の南西)は4世紀に作られたと推測される前方後円墳で、全長87mのこの古墳からはガラス玉や鉄刀などさまざまな出土品が発掘されました。とりわけ「三角縁神獣鏡」は、京都府や山口県・福岡県でも出土しているもので、豪族が大和朝廷に貢物をした際のお返しとして朝廷から賜ったものであり、この地の豪族が朝廷と強い繋がりを持っていたことを示しています。また、白山古墳の西に隣接していた第六天古墳からは、何種類かの副葬品と共に11体の男性が埋葬されていた石棺がみつかりました。
ここからは白山古墳の削平時に、国宝に指定された秋草文壺(あきくさもんつぼ:12世紀後半作と推定)も出土している。
Wikipediaの説明にあった観音松古墳も全長100m程度の大型前方後円墳だったとのこと。以下は横浜市の埋蔵文化センターが発行する埋文よこはま30号より。
横浜市港北区の矢上の台地上に築造された観音松古墳は1938年に破壊され、測量図も公表されていませんが、全長約100m程度の大型前方後円墳と言われ、加瀬白山古墳に後続する大首長墓です。内行花文鏡をはじめ、銅鏃・石製品など豊かな副葬品が出土しています。
今回のエントリのために調べていたら、なんと来たる5月27日(金)に観音松古墳跡や白山古墳跡を訪ねるボランティアガイドによるツアーが企画されていた。これは面白そう。
歴史ツアー「日吉台付近に前方後円墳を探る」参加者募集中! | ニュース | 港北ボランティアガイド
申し込み締め切りは5/19、応募者多数の場合は抽選。
※追記 以下が上記ツアーで見た白山古墳跡の様子。