墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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子母口富士見台古墳 「史跡めぐり 古代の橘樹をゆく」ツアー・4

前回のつづき。

影向寺を出て次の目的地、子母口(しぼぐち)富士見台古墳へ。

この細道のあたりは橘樹郡衙跡と影向寺との中間ぐらいだが、ここから建物跡の一部が発掘されているそうだ。橘樹郡衙の正倉跡は複数見つかっているが、郡庁はまだ。

複数ある候補地のうち、ここは有力候補とのこと。

 

そこを抜けると台地の南の縁に出た。斜面は能満寺の墓地。

 

縁に沿った道を進む。

 

魅力的な坂道。だがここは通らなかったはず…

 

これから向かう隣の台地。間に中原街道が通る。

 

中原街道を渡る一行。ここは街道が切り通しになっている。

 

「たちばなの散歩道」の案内板があった。

 

今度は上り坂。

 

歩いてきた側の台地。

 

下を見下ろすと中原街道。

 

途中、宅地化されていない斜面があった。

 

一行は、古代人も目にしていた地形を眺めて古代に思いを馳せる。

 

さらに住宅街を進むと、土盛りが!

 

子母口(しぼぐち)富士見台古墳に到着。

 

解説板があった。ここに弟橘媛の衣や冠、櫛が埋まっている?

子母口富士見台古墳
この古墳は、道路に面した麓部が大きく削られていますが、築造当初はかなり大きな円墳であったと思われます。
現在の規模は、墳丘高3.7m、墳丘径17.5mです。
この古墳には、古くから弟橘媛にちなむ話が伝えられています。橘樹神社の社伝では、日本武尊東征の際、尊の身代りに海中に身を投じた弟橘媛の御衣・御冠が、この地に漂着したと伝えています。
また、「古事記」では「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち其の櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と伝えています。
真偽のほどはともかく、この古墳にまつわる話として興味深いものがあります。
昭和62年10月 川崎市教育委員会

 

道路で削られた側。その工事の際の調査で、墳丘内部に版築の跡がなかったことが判明したので、古墳ではない可能性も考えられるとのことだった。

 

仮に「塚」だとしても3.7mは立派な高さ。

 

富士見古墳だが古墳自体が富士山のようでもある。 

 

墳頂部。多くの人に”愛されている”ようだ。

 

墳丘からの眺めは閑静な住宅街。

 

この方向に富士山が見える?

 

地表のレベルも周囲より高い立地だった。

 

次の目的地は橘樹神社。台地を降りて弟橘媛の衣、冠、櫛が流れ着いたとされる場所へ向かった。

つづく。