松岳山古墳からは西に1.3㎞の玉手山古墳群を訪ねました。
まずは古墳群中の北端に位置する玉手山1号墳へ。

(見学者用駐車場はありません)
説明板が2つ。左は、ここが大阪の陣で戦場となったことが記されていました。豊臣方が布陣していたこの山(古墳)に、先鋒として攻め上がって討ち死にした徳川方の供養碑が墳頂に建てられているとのこと。

右が古墳の解説。

玉手山1号墳
この玉手山古墳は、古墳時代前期の古墳が営まれた玉手山丘陵の最北端に位置する前方後円墳です。全長は110m、後円部の直径は60mあまり、前方部の平面形は撥形、後円部三段・遠方部二段に築造され、さらに墳頂部には板石積みの方形壇が築かれていました。この墳頂部の埋葬施設は未確認ですが、前方部では粘土槨、後円部の裾では埴輪棺が確認されています。方形壇やテラスの一部には白色の小石が散布され、円筒埴輪(一部は朝顔形埴輪)は密接して樹立されていたようです。3号墳に続き4世紀前半に築造された古墳と考えられています。
2009年3月 柏原市教育委員会
説明板から左へ進むと、墳頂の墓地への上り道。

墓地・供養碑への道として整備されています。

登りながら左を見ると、後円部の大きな斜面。

その斜面の下る先を目で追うと、まだまだ墳丘が続いています。

後円部墳頂の墓地に供養碑。

後円部の向こう正面の丘には3号墳(中央建物の背後、墳頂約110mの前方後円墳で、3世紀末頃の築~「古墳図鑑」の解説より。以下も)

その右手の墓地が2号墳(墳頂約80mの前方後円墳で1号墳より若干古いようです)

3号墳から左に目を移すと、二上山が望めました。

上から見る後円部斜面。

その先で前方部側へ回り込めるようになっていました。

奥へ伸びる前方部。

鞍部(くびれ部)のあたり。

そのあたりから振り返った後円部。
ところどころ削られているのは陣地になったときに改変を受けたからでしょう。

くびれ部では葺石と、テラスに立つ埴輪列が調査で確認されており、柏原市のサイトで写真が見られます。全体の実測図も。
「古墳図鑑」では、玉手山1号墳は「メスリ山古墳の相似墳とする説と、渋谷向山古墳の相似墳とする説があります」と紹介されています。
前方部先端側へ向かうと、墳頂は平坦ではなくなってしまっていました。

見下ろす先端裾側。

少し降りて、前方部左裾から見た墳丘を。奥が後円部です。

ここからは、すぐ北を流れる大和川が良く見えました。

最初の登り口と道路を挟んだところにある公園。

そこからの玉手山1号墳をパノラマで。

コンクリの滑り台に上がって、再度前方部を。


そこから北側の眺め。

大阪のビル群をズームで。

さらに左、西北西方向には、住宅地の湖に浮かぶ島ような2つの緑の丘。

左が仲津山古墳(仲津姫陵)、右が市野山古墳(允恭天皇陵)でした。
どちらもおよそ1.5㎞先で、間には石川が流れています。

2025年11月中旬訪問
「古墳図鑑」はこちら。
