東谷山白鳥古墳を見た後は、南に300mほどにある白鳥塚古墳へ。
緩い坂を上っていくと道路の対岸に見学者用駐車場が。

そこにあった周辺図には、庄内川の河岸段丘のラインが赤い点線で示されていて、地形と墳丘との関係がとてもよくわかりました!

道路右手に見えてきた白鳥塚古墳の後円部を柵越しに。

道路に向かって説明板も。

白鳥塚(しらとりづか)古墳
東谷山西麓に位置する大型前方後円墳で、全長約115m、後円部径約75m、前方部長約43mで、愛知県下第3位の墳丘規模を誇る。4世紀前半に築造されたもので、原形をほぼ保っている。
墳丘は、白色石英を用いて飾られており、その景観が白鳥を連想させるところから、白鳥塚の名でよばれるようになった。
昭和47年、国の史跡に指定。平成26年10月、この白鳥塚古墳に加えて、新たに6基の古墳が国の史跡として追加指定を受け、名称が「志段味古墳群」と変更された。
名古屋市教育委員会
さらに上ると墳丘の全体像も見えてきました。右が後円部、左奥に前方部。

やがて「史跡白鳥塚古墳」と大きな文字が掲げられた入園口が。

柵には地元の小学生が調べたパネルも。



墳丘南東側から”古墳公園”に入ります。

周堤そばにあった解説板。

国指定史跡 志段味古墳群 白鳥塚古墳
志段味古墳群は、濃尾平野の東端に位置し、4世紀前半から7世紀末に造られた総数約70基の古墳から構成されます。
白鳥塚古墳は4世紀前半(古墳時代前期半ば)に築かれた愛知県で最も古い前方後円墳です。墳丘の長さは約115mで、県内で3番目の大きさです。古墳の周りには濠がめぐり、後円部北側には渡土手(陸橋)が設けられていました。埴輪が見つかっていないことから、この地域に埴輪を並べる文化が伝わる以前に造られた古墳であると考えられています。渡土手があることや、墳丘が白色の石(石英)で飾られることなど、白鳥塚古墳と奈良県の大型前方後円墳には共通点が認められることから、白鳥塚古墳の被葬者はヤマト王権と強い結びつきがあった人物と推定されます。
実測図部分。

いったん周溝に降りますが

そこからパノラマで。右奥の道路を歩いてきました。

後円部の裾。

そこにあった解説は墳名由来。

白鳥塚古墳の名前の由来
白鳥塚古墳は、石英で白く飾られた古墳の外観や、伊吹山で傷を負ったヤマトタケルを尾張まで運んだ白鳥の墓であるとする伝説から、その名で呼ばれるようになったと言われています。名古屋市教育委員会
なかなかの高さです。

後円部斜面テラスのあたりから前方部方向を。

後円部墳頂には円形で小礫が敷かれています。

その解説。

白鳥塚古墳の埋葬施設
昭和初めに後円部墳頂中央部の発掘が行われましたが、埋葬施設や副葬品は見つかりませんでした。
これまで後円部墳頂の学術的な発掘調査は行われていません。
平成18年(2006)に実施された物理探査
(レーダー探査・電気探査)では、南北方向を主軸とする二つの埋葬施設が東西に並んで存在する可能性が指摘されています。
なお、後円部墳頂の平坦面には石英の小礫が敷き詰められていたと考えられています。
※平坦面の中央には、発掘調査出土した石英の転落石を使って石英の敷石を推定復元しています。
名古屋市教育委員会
後円部先端方向。

後円部から前方部方向。結構比高差があります。

コース以外には立ち入れないので、いったん降ります。

墳頂から見下ろす周溝。

くびれ部あたりから前方部にあがって後円部方向を。

前方部なかほどから後円部方向。

そのあたりから右裾を。後円部裾の曲線がきれい。

前方部の先端から、後円部方向。

先端方向。柵の向こうは浅い谷。

その谷には水の流れがありました。

墳丘を北側から。

こちら側の後円部裾にある、渡土手(わたりどて)の高まりを。

その説明板。

白鳥塚古墳の渡土手
後円部の西側には「渡土手」とよばれる土手状の高まりがあります。幅は約9mで、斜面には葺石が積まれていました。古墳の外から墳丘へ渡るための通路(陸橋)であったと考えられます。
名古屋市教育委員会
くびれ部付近には葺石が復元されています。

光があたるところを見たいですが、夕日なら当たりそう。

白鳥塚古墳の葺石
墳丘の斜面には、人の頭くらいの大きさの丸い石(円礫)や角ばった石(角礫)が葺石として積まれ、その上に白色の石(石英)が散りばめられていました。陽の光が射しこむと、石英で飾られた古墳は白く輝いて見えたと想像されます。
名古屋市教育委員会
前方部左裾から全体を。

前方部右裾から全体を。

見学しやすく、見応えのある墳丘でした!
2024年12月上旬訪問