墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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亀塚古墳(前編) 大分県大分市里

前回の臼塚古墳見学後は、佐賀関半島の根っこを横断して、大分平野の東に位置する国史跡・亀塚古墳を訪ねた。 県道205号で20分ほど。

 

最後の坂を上ると、雄大な前方後円墳が出現。感動!

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「亀塚古墳公園」として整備されていた。

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亀塚古墳公園案内図
県下最大の亀塚古墳をはじめ7基の前方後円墳が築かれた大分市東部、そこは4世紀~5世紀にかけて、大和政権と深くかかわった海部勢力の成立した舞台です。亀塚古墳は、全長116mあり、海から見える高台に築かれた5世紀初め頃の前方後円墳です。散弾に築き上げられた墳丘や祭りを行った造り出し部、白い石英質の石で葺かれた葺石、この地方に特有な緑泥片岩を箱形に組んだ全長3mを超える巨大な石棺などが特徴的です。また、短甲や鉄鏃、曲玉、ガラス玉、管玉等の副葬品の外、後円部や造り出し部には準構造船の埴輪、船を描いた埴輪、盾形埴輪、家形埴輪、南海産のスイジガイ文様を描いた埴輪などが置かれ、特に船を表現した埴輪からは、この古墳の主が「海」に活躍した「海部」の王であったことがうかがわれます。
この施設は、連綿と伝えられてきた貴重な文化財と地域性豊かな自然観光とを保全し、観光施設として活用できるよう、国史跡亀塚古墳の保全整備と古墳時代の文化や生活の様子を解説した海部古墳資料館の設置を中心に、史跡整備を行ったものです。とくに古墳の整備は、部分的に築造当時の姿を再現し、他は墳丘がしだいに「草山」となっていくその姿を表現するといった全国でも初めての整備手法をとっています。

 

前方部先端の辺に沿って、直線上の溝がある。

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排水施設のようだ。

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溝状遺構
前方部の南端約8m~11mのところに東西方向に掘り込まれているものです。古墳の葺石と同じ拳大の石英質の礫を使って幅50㎝、深さ35㎝の側溝をつくり、暗渠(排水施設)に使ったもので、古墳本体からしみ出してきた水を処理するために工夫されたものと思われます。
溝の端は左右の谷へ伸びています。

 

前方部裾にあった説明板。

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亀塚古墳
5世紀初頭に築造された県下最大の前方後円墳。全長は116mを超え、うち後円部は約62mの規模を誇る巨大墳です。墳丘は3段に築成され、各段のテラス部には白い玉砂利を敷き、とくにくびれ部にスイジガイの文様を刻んだ円筒形埴輪、朝顔形埴輪をめぐいらしていました。後円部墳頂や造り出し部にも船形・家形・盾形の形象埴輪を置き、また墳丘は白い石英質の拳大礫を使った葺石に覆われていました。高さ10mの後円部墳頂からは豊後水道や後背山地など四方がよく見渡せ、白で統一された巨大な古墳は紺碧の海と山野の緑の中に、まるで浮き出た感じを与えたにちがいありません。
5世紀前後に豊後の「海部」を支配した大首長の権力をうかがうにふさわしい古墳です。
(平成8年3月28日 国指定史跡)
亀塚古墳の性格を示す遺物
・大型船が描かれた埴輪片
・船形埴輪片(船首部分)
・スイジガイ文様の埴輪片(朝顔形埴輪)

 

前方部の階段を上がる。

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段築のテラスを横目に。

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前方部に上がって後円部を。緑の芝と葺石の対比が美しい。

最初の解説にあった「(築造時の)墳丘がしだいに草山となっていくその姿を表現する」との試みが効果を発揮しているように感じられた。

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前方部の右裾方向。木々の奥にちらっと街が。坂ノ市(大分市内)方向。

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後円部に向かって左側面。造り出し、埴輪列、石英質の石による葺石で築造当時の姿が部分的に表現されている。

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埴輪列は密ではなく。

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反対側の右側くびれ部。

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斜面とテラスとで石の大きさが違っている。

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くびれ部から見上げる後円部墳頂。

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石英質の石は小さいものも混ざっていた。

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墳頂附近で眺望も開けてきた。

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反対側。

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墳頂は広く、中央に箱式石棺があった。

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振り返っての前方部方向。

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石棺は巨大で大迫力。中へ入るのは遠慮した。

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石棺を横方向から。

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石棺脇の説明板。

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亀塚古墳の主体部(埋葬施設)
埋葬施設である主体部は墳頂部に2か所設けられていますが、平成5年(1993)の調査以前にすでに破壊を受けていました。
・第一主体部
9m×7mの墓壙の中に長大な石棺を据えた埋葬施設です。石棺は長さ3.2m・幅1.1mと長さ90㎝・幅1.2m(厚さはともに10㎝)の板石を箱形に組み合わせた箱形石棺で、地元産出の緑泥片岩を使ったいわゆる「海部(あまべ)の石棺」といわれるものです。石棺内部は遺体を安置した部分と数々の副葬品を納めた部分とに区画されています。海部の王の権威をうかがわせる県下最大の石棺です。
・第二主体部
第一主体部に遅れてつくられた施設で、第一主体部に葬られた人物の近親者と思われます。30㎝~50㎝の緑泥片岩をくりぬき赤色顔料をほどこした石棺を安置していたようですが、ひどく損傷を受けていました。
・出土遺物
墳頂部の周辺には円筒形や朝顔形の埴輪と、主体部の周りには家や船をモデルにした形象埴輪が置かれていました。第一主体部からは短甲(ヨロイ)、鉄刀、鉄剣、鉄鏃の各破片のほか滑石製勾玉428点、碧玉製管玉、滑石製臼玉、ガラス小玉などの玉類が多数出土しました。
第二主体部でも滑石製勾玉、碧玉製管玉が見つかりましたが、副葬品の多くは過去の破損の際に、散逸したものと思われます。

つづく。