墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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堂山古墳群・後編(3~7号墳、1号墳) 大阪府大東市寺川

前回の堂山古墳群の続きです。

2号墳を、南東に降りた階段の下から見上げて。

 

2号墳の南斜面に、3,4,5,6,7号墳が展開しています。

6世紀末の2号墳と同時代(7号墳)もあれば、1世紀後のものも。

 

一番下側、裾のあたりの堂山3号墳。

 

横穴式石室の感じが石の並びでつかめます。


その説明板。

堂山3号墳
時期:7世紀前半 古墳時代終末期
墳形や規模は不明であるが、長さ3.3mの南に開口する無袖式横穴式石室を主体部としている。玄室とその周辺より須恵質四注式陶棺の破片が出土しており、石室内に納められていたものと推定される。陶棺は摂津地域で製作されたものと考えられており、同地域との関係が想定される。その他、玄室内より土師器杯が出土している。

 

3号墳からの陶棺の写真はこちら(パンフレット)で見られます。

https://www.city.daito.lg.jp/uploaded/attachment/15668.pdf

 

その上の、階段の右(東)側に4号墳。T字形の石室が感じ取れますね(右が開口部でしょう)

 

その説明板。

堂山4号墳
時期:7世紀中頃 古墳時代終末期
長s時には既に墳丘は流出しており、墳形や規模は不明である。主体部は南に開口する、玄室長2.85m、羨道部長1.8mのT字形横穴式石室である。玄室からは鉄釘11本が出土している。このT字形の石室は和歌山県岩橋千塚古墳群に多く見られ、朝鮮半島にも類例のあることから渡来人との関係が想定される。府下では唯一の出土例となっている。

 

さらに右に7号墳の解説板もありましたが、遺構はわからず。

堂山7号墳
時期:6世紀末 古墳時代後期
調査委には墳丘は失われていたため、墳形や規模は不明である。石室も全く残っていなかったため、主体部も不明であるが、検出された東西3.8m、南北2.0mの墓壙の掘り方から、玄室の歯bああ1.25m~1.5mと推定され、南南東に開口部をもつ、両袖式あるいは片袖式の横穴式石室と考えられている。

 

さきほどの階段の左側には5号墳と6号墳。

説明板は見つけられず。

 

さらに台地先端の1号墳への小径。

 

1号墳もステージのような立地です。

 

堂山1号墳の解説。

5世紀前半と、群中で一番早く築かれています。そこから200年に渡って築かれ続けたのですね。

堂山1号墳
西方に張り出す標高約78mの尾根の先端部に位置している。墳丘は基盤層である花崗岩の岩盤を削り出して整形したもので、北東部と南西部で周溝が、墳丘裾では69個体の円筒埴輪列が検出されていることから、直径約25mの円墳と推定されている。また、墳丘南西部では、墓前祭祀に使用されたと考えられる須恵器の器台や高杯などがまとまって出土している。主体部は長さ4.4~5.3m、幅3.2~3.6mの墓壙で、墓壙壁の一部には礫が積まれており、内部には組合式箱形木棺とその東側に副葬品を納めた副棺が置かれていたものと推定されている。木棺内からは翡翠製勾玉、管玉、ガラス玉、紡錘車が、棺外の左(11本)右(14本)からは短剣がまとまって出土している。副棺からは甲冑(三角板革綴短甲・衝角付冑)1組と鉄刀(18本)・鉄鏃(198点)んどの鉄製武器・武具類の他、農・工具が出土している。
副葬品や出土遺物から5世紀前半(古墳時代中期)の築造と推定され、多量の鉄製武器・武具類を保有することから、被葬者は、当時の中央王権であった百舌鳥・古市古墳群の被葬者勢力と、武器の供給を通じて深い関係のあったこの地域の首長的な人物と考えられる。
平成24年 大東市教育委員会

 

見事な副葬品。

 

1号墳の墳丘からの眺め。

 

丘陵の先端を見下ろして。


南に続く生駒山地。大阪府の西の壁です。

 

ズームして。

 

あべのハルカスも、うっすらと。

 

淀川北岸の山並みも。

 

2号墳側を振り返って。

2023年9月中旬訪問