墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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堂山古墳群・前編(堂山2号墳) 大阪府大東市寺川

前回の忍岡古墳からは南に車で15分ほどの堂山古墳群へ。

 

グーグルマップに導かれて不動明王(野崎不動尊)へ。ここまでは小型車がやっと通れるほどの細道でした。

 

まずは不動明王にお参り。

 

その先は山道でした。

 

古墳への分岐からは、しっかりとした安全柵が。


史跡広場として整備されています。開門時間制限あり。

 

史跡広場の解説板。

大東市立堂山古墳群史跡広場
堂山古墳群(大東市指定文化財第12号)
「金の鶏が埋まっていて正月の朝に鳴く」という伝承が残るここ堂山は、標高80~100mほどの小高い丘陵で北は北摂の山々、西は六甲の山並みから遠く淡路島、南は和泉山脈が一望でき、古代には河内湖がすぐ眼下まで迫っていたことと思われる。
古墳発見の経緯は、当地において大阪府水道部大東浄水池の建設が予定されていたが、昭和44年に地元住民により遺物が発見されたことにより、大阪府教育委員会の2度にわたる発掘調査(昭和44年・47~48年)が実施されたことによる。
1号墳は、西方に張り出す尾根の先端部に築造された、5世紀前半(古墳時代中期)の古墳で、円筒埴輪が廻らされ、副葬品の鉄製武器・武具類が大量に出土したことから、当時の中央王権との関係が深かった当地域の首長的人物の墓とされている。
2~7号墳は、1号墳から100年以上後の、6世紀末~7世紀中頃(古墳時代後期~終末期)に築造された異なる系譜の古墳で、3号墳の須恵質四柱式陶棺、4号墳のT字形横穴式石室、5・6号墳の外護列石と墳丘の共有などそれぞれ特徴をもつ群集古墳である。
この貴重な文化遺産を後世に伝えていくため、大東市の史跡として指定し、保存していくものである。
平成24年3月 大東市教育委員会

 

2号墳とその裾に3~7号墳、さらに先に1号墳。

 

2号墳への階段。

 

2号墳の墳頂です。


2号墳の解説。

堂山2号墳
時期:6世紀末 古墳時代後期
古墳群のなかでも最高所に位置し、2~7号墳の中で最初に築造されたと考えられている。調査時は墳丘の大半が失われ、主体部の残りも悪かった。南にある4号墳との位置関係から直径18mの円墳であったと考えられ、主体部は南に開口する玄室長2.3m、羨道部長2.0mの両袖式横穴式石室であったと推定されている。須恵器小片が出土している。

 

非常に眺めのよい墳丘でした。南に伸びる生駒山麓。高安古墳群までは10㎞程。

 

大阪平野を一望。

 

中央奥に大阪市街のビル群。

 

六甲方面も。

(2023年9月中旬訪問)