前々回の続きの国指定史跡・川南(かわみなみ)古墳群。(2020年3月8日)
北東側の49・50号墳から台地を一段降りて主要エリアへ向かう。
道路沿いの案内表示を入る。
そこにあった説明板。前方後円墳が24基もある。西都原が全盛を迎える前は、こちらが優勢だったようだ。
国指定史跡 川南古墳群
昭和36年2月25日指定
川南古墳群は、約0.5㎢に前方後円墳を24基含む大きな古墳群で、最も大きな39号墳は墳丘の長さが113mあり、馬蹄形の周濠を含めますと120mにもなります。遅くとも4世紀には最初の前方後円墳が造られたのだろうと推定されています。川南古墳群に葬られている豪族の勢力が強かった時期は、4世紀の終わり頃で、39号墳が造られたころと推定されます。当時宮崎で1,2を争う力を持っていたと考えられます。その頃の大きな墳丘は、柄鏡式墳丘といわれ、東九州独特の墳丘の形です。しかし、そのような強大な権力を握っていたのもつかの間で、西都原古墳群に男狭穂・女狭穂古墳が造られてからは100mを超える古墳を造ることはなくなります。これは、古墳群を造った豪族と畿内の王権(大王)との関係は、比較的緩やかな支配・従属関係から、強力な支配・従属関係に変容していった結果と考えられています。それからは、川南古墳群では6世紀の終わりごろまで小さな前方後円墳を細々と造っていくようになります。
川南町教区委員会
マップのアップ。おたまじゃくしが、同じ向きで群れているよう。
説明板から西へ進むと右側に1号墳(円墳)
その先に駐車場があり、さきほどと同じ説明板があった。石碑には「史蹟 川南古墳群」と刻まれる。
そのすぐわきに、2号墳(円墳)
古墳の数の多さに若干途方に暮れつつも、 目立つ墳丘を巡ることにした。
この先、個別の墳丘には説明表示は無かった。
駐車場から300mほど西に進むと、道路沿いに33号墳。
下記のグーグルアースで中央に見えている前方後円墳。
33号墳の墳丘に上がらせていただいて、後円部から前方部方向。
33号墳前方部から先端(東)側にも2つの前方後円墳が仲良く並ぶ。右30号墳、左31号墳。
33号墳前方部から北側に43号墳。右奥には古墳群で一人だけ頭(後円部)を北に向ける帆立貝形の45号墳。
33号墳の前方部から後円部方向。
次に向かったのは道路から南に姿を見せていた11号墳。
十字路から南へ向かう。
途中で畦道に入って墳丘に近づくことができた。
前方部右裾から。
前方部端から後円部方向。墳丘長は107mで、川南古墳群で2番目の大きさ。
左(右)の畑には小島のように小墳丘。すぐ先が台地端で、標高差50m下を切原川が流れる。
つながっているようにみえるが、左15号墳、右14号墳、どちらも円墳。
後円部からの眺め。左が13号墳か。
後円部の先に、18号墳が見えた。
11号墳の後円部から前方部方向。
11号墳の北側はビニールハウスの並ぶ農園だったが、その敷地内にある10号墳(前方後円墳・全長75m)が、3世紀末から6世紀にかけて造営された川南古墳群の中で最も築造時期が遡ると考えられるそうだ。(下記の本の川南古墳群の項より)