墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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カジヤバ古墳 長崎県壱岐市芦辺町国分川迎触

前回のムギカミ神社古墳から、さらに壱岐国分寺跡に近づいて、同じくカタカナ4文字の名前に惹かれて訪ねた「カジヤバ古墳」

 

道路沿いの擁壁の上で、案内板や階段も整備されていた。

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階段を上がって墳丘と対面。 

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最初はここが開口部だと思った。

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上記をくぐった先。 

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そこから左を見て違和感が。

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こちら側が前室・開口部のようだ。 

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上記で振り返った奥壁。 ということは上記の開口部は見学用に作られたもののようだ。

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正しい開口部へ回り込む。

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現地説明板。上記の回り込んだところが「北西方向に開口」 する側だった。

墳丘自体も道路工事で、5mずらして移築されていた。

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カジヤバ古墳
所在地:壱岐市芦辺町国分川迎触字平原311
本古墳は6世紀後半に造られた円墳で、墳丘は後世の耕作や道路工事等によって一部破壊されていたが、残存部分から墳丘規模は直径11m前後、高さ3m前後であったと復元されている。
石室は北西方向に開口しており、羨道部と玄室からなる単室両袖式の横穴式石室で、玄室奥壁から羨道端部までの全長は約5.7mである。一部の石材が失われていたが、玄室両側壁い2枚ずつ、奥壁にも2枚、計6枚の腰石が巡らされていたものと思われ、その上に割石を小口積みで、少しずつ持ち送りしながらドーナツ状に積み上げて天井石をのせた特徴的な石室築造方法である。また、玄室の床面には暑さ2~3cmの板石が全面に敷かれていた。
石室内および羨道部より須恵器・土師器・鉄鏃・鉄釘などの遺物が出土した。土師器には内面に暗文が施された「畿内系土師器」が含まれており、搬入品と考えられる。また、鉄釘の存在から木棺に入れて埋葬が行われたことが推測される。
現存する古墳は、市道川迎線の改良工事に伴って本来あった場所から北側に5mずらして移築復元されたものである。
平成27年1月 壱岐市教育委員会 

 

一支国博物館のサイトによれば、 カジヤバ古墳は6世紀後半の築造に始まり、7世紀代には数度の追葬が行われ、8世紀後半まで祭祀活動が行われているとのこと。

http://www.iki-haku.jp/museumInet/ikf/poiGet.do;jsessionid=41AE174A210A6E55FD818E9A9216FABC?id=1187

 

本来の開口部正面から。 

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前室と玄室の間にある板石は、本来の位置なのだろうか。 

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鬼の窟古墳の前室入口にも板石があったことを思い出した。

https://massneko.hatenablog.com/entry/2020/05/28/000000

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板石の間から奥壁を。

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額田大玉さんのサイトによれば、石室全長5.7m、玄室長2.5mで幅、高さとも2m弱。

「素直にオリジナルどおり復元しておいて欲しかった…」は同意見です。

http://kofuntokaare.main.jp/5goufun/page255.html