墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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鶴巻古墳 群馬県伊勢崎市東小保方町

前回の円福寺茶臼山古墳からは西に8㎞程移動して、鶴巻古墳へ。

 

平地に築かれた墳丘です。

 

市指定史跡。径34mの円墳です。

伊勢崎市指定史跡 鶴巻古墳
古墳は古代の豪族達の墓であると同時に、権力と地域支配の象徴でもありました。ここから境町淵名地区にかけての地域には淵名古墳群と呼ばれる70基以上の古墳が確認されており、この地域を支配した豪族達がいたことを物語っています。
鶴巻古墳はその北端に位置し、直径34m、高さ2.5mの規模をもつ6世紀末頃の円墳です。現状では何も残っていませんが、築造当時は墳丘の裾に円筒形の埴輪や馬・人物等の埴輪が配置され、周囲には堀がめぐらされていたことが昭和43年に行われた発掘調査によって判明しています。
内部にある両袖型横穴式石室は全長5.2m、最大幅2.1mの規模を有し、羨道と遺体を納めた玄室とにより構成れています。天井は凝灰質砂岩の巨石5個を使用し、壁は側壁・奥壁とも浮石質紡錘状角閃石安山岩を削って互目積しています。この浮石質紡錘状角閃石安山岩という石は、6世紀代に起こった榛名山ニッ岳の噴火による火山弾であり、それが古利根川(現在の広瀬川に沿ったあたりを流れていたと考えられています)によって運ばれてきたものをこの地まで運んで加工したものです。
この古墳は盗掘にあったため出土遺物はわずかであり、小規模で被葬者も判明している訳ではありませんが、石室の築造造技術とその優美さにおいて、群馬県下に比類なき優れた古墳です。 
平成3年7月

 

上毛かるたの「へ」

 

整備されて、三段築成がくっきりと。

 

墳丘近くの説明板。

伊勢崎市指定史跡 鶴巻古墳 
下谷地区のこのあたりには、古墳が35基以上あります。これらの古墳はいずれも古墳時代後期に造られたものです。残念ながら今ではほとんどの古墳が消滅してしまい、姿をとどめるものはこの鶴巻古墳だけになってしまいました。しかし雑草が生い茂げり、墳丘も崩れかけていて自由に見学することは出来ませんでした。 
そこで東村では、この貴重な古墳を往古の姿に戻し、後世の人々に永遠に遺してゆくため、3ヵ年計画でこの鶴巻古墳の整備を行いました。平成6年度には用地を購入し、平成7年度には古墳の本来の姿を知るために発掘調査を実施し、その結果をもとに史跡公園として設計を行い、平成8年度に復元整備の工事を実施したものです。 
発掘調査の結果、これまで円墳といわれていたものが実は北西方向に小さな造り出しがある、帆立貝形の古墳であることが判明しました。東側は開田のため破壊されていましたが、南から西側にかけて古墳を区画するための周堀が見つかりました。古墳の規模は、周堀の内側で東西方向35.5m、南北方向32.5mありますので、周堀を含めた実際の姿はもっと大きいものになります。
墳丘は2段になっており、下から2段目に横穴式石室の入口があります。この入口の周囲には、約80cmの間隔で円筒形の埴輪がおかれていました。墳丘の高さは周堀の底面から5mと推定しましたが、周堀が地下1mの深さで保存されているため、現在の高さは4mになっています。
周堀は小砂利を敷いて平担面とし、墳丘には芝を張り階段を設置しましたが、これらは便宜上設置したもので、古墳本来の姿ではありません。 
平成9年3月 伊勢崎市教育委員会

 

三段の築成。

 

さあ墳頂へ。

 

広い墳頂でした。西方向。

 

浅間山が見えていました。

 

北には赤城山。

 

上記の左端。雪がついているのは谷川岳でしょうか。

 

裾を見ると、開口部が。

 

開口部を正面(南西側)から。

 

石室脇の説明板。

横穴式石室
この古墳の横穴式石室は、遺体を安置する部屋である玄室と通路である羨道とに分かれています。羨道は長さ2.25m、幅1.23m、高さ1.2mあります。玄室は幅が広く、床も一段下がっており、長さ3.15m、幅は2.15m、高さは2.05mあります。
石室の壁には、角閃石安山岩という石が使われています。この石は、実は榛名山二ツ岳の軽石なのです。6世紀の中頃、榛名山二ツ岳は大噴火を起こしましたが、そのとき噴出した軽石は利根川(当時は今の広瀬川あたりを流れていたようです)に押し出して流れていきました。
この軽石を利根川からここまで運び、上下左右と正面の五面を削り、大きな石は下にして互目状に積み上げたもので、極めて美しい横穴式石室です。 
天井石には、凝灰質の大きな砂岩が4個使われています。この石の産地は不明ですが、遠くからはるばる運んできたものと思われます。
発掘調査の結果、内部からは刀寸や鉄鏃などの武器、轡などの馬具、金銅製環などの装身具類のほかに歯や骨片なども出土しました。 
この石室に葬られた人物は、古墳の規模や優れた築造技術からして相当に力がある、おそらくはこの地域を治めていた豪族のひとりだったのではない かと思われます。
平成9年3月 伊勢崎市教育委員会

 

中には入れませんが

 

覗けます。

 

整然と積まれた奥壁も。

 

墳丘脇の木に朝日。

 

造り出しの側(西北西)から、その木とともに。

 

墳丘の美しさを堪能できました。

2021年12月上旬訪問