墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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塚原古墳群(その5:りゅうがん塚古墳) 熊本県熊本市南区城南町塚原

塚原古墳群の最終回は台地の北端にある、りゅうがん塚古墳。

 

見学施設としてのスケルトン墳丘になっています。

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まずは階段左手へ。詳しい説明板がありました。

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りゅうがん塚古墳
墳丘規模
東西軸径(封土部)残存部径19.4m、復元径24.0m、南北軸径(封土部)残存部径21.0m、復元径21.2m
周溝幅 残存幅2.6m 復元幅2.8m
テラス幅 1.0m 復元墳丘高4.3m

石室規模
石室奥行 5.87m 玄室奥行2.29m 羨道部幅0.97m 石室幅5.03m 玄室幅2.08m 羨道部長1.01m 前庭部長1.014m 羨道方位 N-57°-W

りゅうがん塚古墳は、丘陵先端部の斜面に造られた円墳です。以前は1m程度の墳丘を見ることが出来ましたが、耕作地や墓地として利用されたため、視界から消えてしまいました。その後調査により石室や封土の一部が残っていることが確認され、再び注目されることとなりました。
この古墳の特徴は、内部主体として採用されている肥後型矛孔式石室に見ることが出来ます。石室はすでに3分の2が失われていますが、片袖式の羨道をもつことや石室を囲む根固め石が設けられるなど、他の肥後型石室には例のない構造が見られます。また石積みの基礎を良く残しており、石室の構築状況を観察する上では貴重な古墳でもあります。肥後型石室は5世紀前半期に熊本(旧肥後国)で成立・発展したとされますが、本古墳は出土した土器や石室の形態などからこの時期にあたり、同種石室のルーツや発展過程を探る上では極めて貴重な古墳といえます。

 

CG画とともに、築造の手順が解説されています。

1,斜面そ切り開き、古墳築造のための整地を行う
2,石障を立て、玄室床面直下まで土盛りを行い、仕切石を立てる。
3,玄室に床(白色粘土)を貼り、石障の周囲を15㎝程度高くし、板状石及び根固め用の川原石を乗せる。
4,石室の周囲に土盛を行いながら石障の高さまで板状石を水平に積む。(石障の高さは玄室床より約70㎝)
5,石障の上から板状石を持ち送りアーチ状に積む。羨道部には床から約80~90㎝の位置に楣石を渡す。
6,持ち送りをやや急にして、床より2mの位置までドーム状に石を積む。
7,最奥部に板状の一枚石を乗せ天井石とする。
8,天井石の上にさらに約2m程度の土盛りを行い古墳が完成する。
9,完成したりゅうがん塚古墳。人々はどんな思いでこの古墳を造ったのだろうか‥

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「肥後型横穴式石室」の解説。

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肥後型横穴式石室とは
ドーム形天井や玄室の周壁下部に安山岩・凝灰岩・砂岩などの板石(石障)をめぐらし、その内部に区画した屍床を配することなど特異な構造をもつ横穴式石室です。
熊本県(旧肥後国)で成立し発展したことから、肥後型の名でよばれています。5世紀前半期から6世紀前半期まで約1世紀にわたって造られ、この間に熊本県中南部を中心に北九州や遠く岡山県までその広がりを見ました。

 

こちらが、りゅうがん塚古墳の石室ですが、埋葬施設を含む床面あたりのみ。

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シダ類が旺盛でした。

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階段を上がると、墳頂手前に至ります。

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そこから北側の眺め。600mほど先に、緑川の支流の浜戸川が流れています。その河口は宇土半島の北側付け根。

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(2021年11月訪問)