墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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南下古墳群:A・B・C号墳 群馬県北群馬郡吉岡町南下

前回のつづき。

沼田からの帰り道にもう一ヶ所、吉岡町の南下(みなみしも)古墳群を訪ねた。

この古墳群も車なら行きやすい場所にある。

関越道の駒寄PAにはETCで出入りできるスマートICが設置されている。南下古墳群へはそこから車で4分。 

 

古墳の周囲は細道が入り組んでいるが周囲から目立つC号古墳の前に2,3台停められるスペースがあった。古墳ごとに矢印のついた標識があってとても親切。

 

A号墳の墳丘。

 

回り込んでいくと斜面下への小路があり、石室開口部があった。 

 

しかし残念ながら竹の柵が。

 

吉岡町教育委員会に事前に連絡すれば見学はできるようだった。

 

詳しい説明板があった。

町指定史跡 南下A号古墳
本古墳の所在する丘陵にはかつて40基を超える古墳があり、町内でも有数の古墳群を形成していた。しかし、時代の波とともにその数は減少し、今は僅か9基を残すのみになっている。これらは南下古墳群として県内外に知られ、本古墳とB号古墳の2基は町史跡に指定されている。9基の内5基の古墳は開口し、石室の構造や石材の利用方法等の違いを見るのに適している。
本古墳は、陣場岩屑流と呼ばれる流山の南斜面中腹に構築された山寄せ式の古墳である。墳丘は2段構築で、非常に丈が高い円墳と推定されている。墳丘の規模は径20~27m、高さ約4mである。葺石及び埴輪の有無は明らかでないが、埴輪についてはその破片すら発見されておらず存在しない可能性が高い。周溝等外部施設については発掘調査をへていない現在不明と言わざるをえない。
石室は真南に開口する横穴式両袖型石室で、截石切組積の手法を駆使した極めて美しいものである。石材には主に角閃石安山岩を用い角は全て直角に加工し、随所に切組の手法を取り入れている。羨道と玄室の境に据えられた玄門及び冠石の加工技術の優秀さはその水準の高さを物語っている。玄室の壁面は最終的に漆喰で塗りこめられていたらしく所々にその痕跡を残している。石室の規模は羨道長3.25m、幅1.58m、高さ1.55m、玄室長3.25m、幅2.4m、高さ2.4mである。
近年玄室及び羨道の壁面に石材加工、壁対構成の際の作業線と推定される朱線が発見され注目されている。朱線については本古墳の北約60mに所在するE号古墳にも発見されている。
本古墳は古い開口のため年代の手がかりとなる出土遺物の所在は明らかでないが、石室の構造及び企画、また石材の加工法等から7世紀末葉の古墳と推定されている。
平成6年9月1日 吉岡町教育委員会

 

柵越しに内部を。

 

フラッシュを炊くと、玄室奥壁の見事な切石も写った。

毎度ながら、昇寛さんは中で撮られているので、そちらをどうぞ。

吉岡町南下古墳群A号古墳 » 埼群古墳館

 

A号古墳の前の小路をゆるく下っていくと斜面に横穴を穿ったようにB号古墳がある。

 

なかなか小さな入口。

 

榛名山・相馬山の山体崩壊(13000年前)による陣場岩屑流の流山の南斜面中腹に”山寄せ”して築かれている。

町指定史跡 南下B号古墳
本古墳は、相馬山の山体崩壊による流山とみられる丘陵上に形成された古墳群の内の1基で、周辺には本古墳を含め9基の古墳が存在している。本古墳は、この丘陵端部の南斜面中腹に山寄せされた円墳と考えられている。
墳丘規模は未調査のため明確でないが、石室前の町道南まで及んでいる可能性があり、径にして約30m、高さは約6mと推定されている。墳丘における葺石、埴輪の設置、また周溝等の外部施設の存在については現在明らかでない。
石室は主に自然石を乱石積した横穴式両袖型石室だが、玄室の壁面に一部削石を用いたり切組の手法を取り入れたりした部分が見られる。また羨道と玄室の境には見事に加工された重量感のある玄門が据えられている。一方の玄門上部には冠石を受けるための切り込みがつけられている。壁体の石材は腰の高さまで垂直に積まれるが、その上は大きく内側に転び天井の幅を著しく狭めている。壁面は歪や食い違いのため整正さに欠け、やや不安定な感じをうける。石材どうしの隙間には漆喰を塗込めていたらしくその痕跡をよく残している。石室の規模は羨道が長さ3.74m、幅1.40m、高さ1.20m、玄室が長さ3.45m、幅2.5m、高さ3mあり羨道に比べ天井が極端に高い。このため羨道をくぐって玄室に入ると広々とした大きな空間に出た感じがする。
出土品については古い開口のため所在は全く判っていない。
古墳の年代は、石室構造や石材の加工技術からみてA・E号墳に先行する時期と考えられ、7世紀中頃の築造と推定されている。
平成6年9月1日 吉岡町教育委員会

 

説明板には羨道の高さ1.2mとあるが、四つん這いでないと入れなかった。

 

内部は高さ3mあってほっとしたが、真っ暗だった。

 

フラッシュなしでも写ったが、実際は目が慣れないと壁面が見えない。

 

上記と同じ位置からフラッシュで。

 

入口を。

 

入口の上を横位置で。

 

奥壁を。

 

 

しゃがんだ位置から奥壁と天井石を。

 

入口から外を。

 

外へ出てほっと一息。

 

見学路を回りこんで歩く。左側の斜面の膨らみがB号墳。右、樹木の間に見えるのがA号墳。

 

一段高い場所にC号墳。

 

開口部の下から。

 

東向きに開口する。 

 

開口部前に設置された説明板。 C号墳が古墳群の中で最も古いそうだ。

南下C号古墳
丘陵頂部に築かれた径役5m、高さ約4mの円墳と推定される。葺石や周堀の有無は明らかでない。古墳周辺から円筒埴輪の破片が採集されているため、埴輪が設置されていると推定される。
石室は自然石乱石積の袖無型で、全長約6.15m、奥壁幅約1.58m、同高さ約1.36mの規模を有する。開口部は東向きで珍しい例である。古い開口のため副葬品については全く不明である。
古墳の年代は、本古墳群では古い時期のもので、6世紀中葉から後半の築造と推定される。
平成22年3月  吉岡町教育委員会

6世紀中葉から後半ということは、二ツ岳大噴火から一世代ほどしか経っていない時期。

 

大きな開口部。

 

奥壁は2つの巨石。

 

奥壁前から開口部。

 

天井石も巨大だった。

 

C号墳の墳丘から。左の円墳がA号墳で、右がF号墳(大林1号墳)

 

西側に榛名山。

 

北東に赤城山。 

 

北方向をパノラマで。

 

赤城山の山裾の上に、非常にうっすらとだが白銀の谷川岳が望めた(照明塔の間)

 

D、E、F号墳は次回で。