墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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国片主神社・壱岐国分寺跡 長崎県壱岐市芦辺町国分本村触

壱岐国分寺跡は、芦辺港と湯本港を結ぶ道に印通寺港(原の辻遺跡)から北上する道が突き当たるT字路に立地していた。 

 

T字路の正面には国片主(くにかたぬし)神社。

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国分寺跡のピンは、この神社の後ろ側にある。 

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まずは神社に参拝。

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御祭神は国片主=少彦名命。

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由緒沿革
当社は延喜式内二十四座の内なり。壱岐島大七社の一つなり。国片主と名付けられたのは、遠き神代において少彦名命が大国主命と共に国土を二分して経営され給うに依る。(後略) 

 

社殿の裏を見てみたが、国分寺跡へはつながっていないようだった。

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鳥居へ戻って別の入口を探す。鳥居の西側に背の高い石柱があった。

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史跡 顎掛け石と六面十二菩薩
(地上総高296㎝)
伝説では、渡良左ェ門(わたらざえもん)という大男が海岸で拾った柱状の石柱をこの場所まで一人で担いで運び、自分の顎がのせられる高さにあわせて立てたといわれています。
その後、渡良左ェ門の伝説にあやかり、地上150㎝前後の高さに人工の刻み目を施し、その場所に自分の顎がのせられるように祈願する風中が島内に広まったことから、この石柱を「顎掛け石」と呼ぶようになりました。
現在、顎掛け石の上には六面十二菩薩の仏塔が載せられていますが、本来別の場所にあったものが何らかの理由で顎掛け石の上に置かれた可能性が高く、異なる時期に違う目的で作られたものと考えられています。
平成28年12月 壱岐市教育委員会

 

ちょこんと、不安定な感じに載る仏塔。

中央の切れ目に顎の載せると「映える」?

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そのとなりには「へそ石」

丸い白い石が「へそ石」のようだが、その下は石室天井石の雰囲気があった。

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史跡 へそ石
この石は、江戸時代に書かれた壱岐名勝図誌に「女夫石」として記載があり、壱岐の中心を表す標石として、往来する人々の道しるべとなっていました。本来は、道路を隔てた南側にありましたが、道路工事の時に現在の位置に写され、「へそ石」の愛称で呼ばれています。
平成28年12月 壱岐市教育委員会

 

その西隣に、奥へ向かう小道があった。

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ちょっとした桜並木。

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その先にあったのは慰霊碑。

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碑の手前には廃屋。下駄箱が生々しかった。

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慰霊碑の手前を右に行くと、国分寺跡の碑があった。

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非常に詳細なので写真のみで。

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壱岐の観光サイト「壱岐びいき」によれば、741年に国分寺建立の詔が発せられた時、壱岐国は天災や伝染病、飢饉などに見舞われていて新たな寺は建てられず、島司の壱岐値(いきのあたい)が自分の氏寺を壱岐嶋分寺(いきとうぶんじ)として提供したのだそう。

https://ikibiki.com/tourism-spot/%E5%A3%B1%E5%B2%90%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%E8%B7%A1/

 

礎石が残っているとあったが、現地では気づかなかった。 

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