墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

二子塚古墳 広島県福山市駅家町中島・新山

前回の宝塚古墳・狐塚古墳から300mほど南、谷を挟んだ台地端に立地するのが二子塚古墳。

 

グーグルマップでは台地下側の民家に誘導されてしまうので要注意。南西側の丘上住宅地からアプロ―チします。見学者用駐車場あり。

f:id:massneko:20211230221058p:plain

 

駐車場の説明板。

f:id:massneko:20211230221139p:plain

史跡 二子塚古墳
平成21年(2009)7月23日指定
6世紀の終わりごろから7世紀の初めごろに造られた前方後円墳です。
【墳丘】
墳丘の裾を巡る周溝を含めた全長は73mで、この時代の前方後円墳としては県内最大規模を誇ります。墳丘のほとんどが盛土で、種類の違う土を交互に突き固めながら積み上げています。
【埋葬施設】
前方部と後円部の双方に横穴式石室があります。
後円部の石室は、両袖式で、玄室とそこに至る羨道に区分され、玄室と羨道を合わせた全長14.9mは県内最長です。さらに、羨道から墳丘裾まで石積みの側壁をもつ墓道が続くという構造は、全国
でも検出例があまりありません。
また、玄室内で兵庫県産の凝灰岩(竜山石)を使った組み合わせ式の石棺が検出されています。
前方部の石室は、天井石が掘り取られ、完全に埋もれていますが、こちらも全長12.5mという大規模な石室です。
【出土遺物】
後円部の石室内から須恵器・土師器のほか、金銅製の双龍環頭柄頭・鍔、鉄製の刀片・矛・鍬などの武器類や金メッキされた杏葉・磯金具、鉄製のくつわなどの馬具類などが出土しています。その中の双龍環頭柄頭は、県内はもとより、瀬戸内沿岸でも初の出土で、向かい合った2頭の龍がそれぞれ玉をくわえるという日本で他に例がないデザインのものです。

 

見事な石室です。

f:id:massneko:20211230221152p:plain

 

墳丘と周囲は古墳公園として整備されています。

f:id:massneko:20211230221208p:plain

 

前方部の右裾から。右奥に後円部。

f:id:massneko:20211230221232p:plain

 

その背面に詳しい説明板。墳丘長は68m。

f:id:massneko:20211230221316p:plain

史跡二子塚古墳 福山市駅家町中島・新山

二子塚古墳は広島県の東部(備後地域)の標高約 50mの丘陵上に造られた前方後円墳です。丘陵の南裾には古代山陽道が通り、東西交通の要街に位置しています。この古墳は、墳丘、石室ともに大規であることから昭和23年(1948)、広島県史跡に指定されました。福山市教育委員会はこの古墳を保存し活用することを目的に、平成14年度から内容を確認するための発掘調査を実施しました。
その結果、墳丘長68m、後円部直径41m、前方部27mで墳丘の周辺には幅1.6~4m、最大深さ1.8m程度の周溝が全周し、それらを含めた総長は73mになることが明らかとなりました。墳丘は、自然地形を整地したのち、盛土部分は何種類かの土が交互に積まれていました。後円部墳丘なかばに平坦面がある二段築成の古墳と考えられています。
埋葬施設は前方部と後円部に横穴式石室が1基ずつあります。後円部の石室は両袖式で、全長14.9mと吉備地域有数の規模を誇ります。石棺は播磨の竜山石製の組み合わせ式石棺でした。副葬品としては須恵器などの土器をはしめ、金属製の武器や、馬具があり、中でも大刀の飾りである金銅製双龍環頭大刀柄頭が出土し注目されました。瀬戸内沿岸では初の出土で、立体的な表現の二頭の龍がそれぞれ玉をくわえ、せびれがつくという意匠は全国的に例がないものです。

 

図の部分を拡大。

f:id:massneko:20211230221336p:plain

 

もうひとつの説明板。

古墳時代中期から後期後半にかけて目立った前方後円墳は築かれなかった備後地域に、畿内との結びつきがうかがわれる石室・石棺材をもつこの二子塚古墳が、突如として出現したそうです。

f:id:massneko:20211230221349p:plain

前方部の石室も両袖式で、奥壁から羨道入り口までの長さは12.6mでした。玄室の側壁は2段目から一部4段目の石まで残っていましたが、大部分の石材が抜き取られていました。
副葬品の内容から古墳は、今から約1400年前、6世紀末から7世紀初頭頃の築造と考えられます。
備前・備中地域においては、古墳時代前期から後期後半にかけて巨大な前方後円墳が築造されたのに対し、備後地域では古墳時代中期から後期後半にかけて目立った前方後円墳は築かれませんでしたが、この時期にこの二子塚古墳が突如として出現します。また後円部の横穴式石室は特に大型で、玄室内の石棺は備中で採れる浪形石ではなく畿内地域の前方後円墳の石棺に採用された竜山石を用い、石室構造や出土遺物からも畿内地域と関係があったことを示します。
二子塚古墳は、前方後円墳が消滅する時期において、西日本では最も新しい時期に築造された前方後円墳の一つで、7世紀前後のヤマト政権と吉備との政治状況を知ることができる点で、きわめて重要な古墳です。
福山市・福山市教育委員会

 

周辺の主な後期・終末期古墳の説明も。

情報量が多くて、嬉しい悲鳴。

マップには、二子塚古墳、尾市古墳、北塚古墳、猪ノ子古墳、狼塚第2号古墳、大迫古墳、ヤブロ古墳、大佐山白塚古墳、宝塚古墳、権現古墳、山の神古墳、二塚古墳、曽根田白塚古墳、大坊古墳、迫山第1号古墳の位置が示されていました。

f:id:massneko:20211230221300p:plain

 

二子塚古墳の墳丘を前方部先端側から。

f:id:massneko:20211230221404p:plain

 

二子塚古墳は前方部にも横穴式石室がありました。

埋め戻されて、羨道入口の側石のみが見られます(墳丘は大きく抉られていますが)

石室全長12.6mはなかなか長いです。

f:id:massneko:20211230221432p:plain

f:id:massneko:20211230221445p:plain

前方部石室
平成25年度の第5次調査で、石室の規模と平面形が明らかになりました。玄室は長さ5.1m、幅2.0m、羨道は長さ7.5m、幅1.6~2.0mの両袖式の横穴式石室です。玄室と羨道を合わせた石室全長は12.6mで、規模の大きいものです。
天井石は全て抜き取られ、石材の大部分が失われていましたが、最も残りの良い奥壁寄りで4段(高さ2.6m)の石積が残っていました。
床面は保存のため部分的な調査に止めていますが、玄室の床面まで調査した第1次調査1トレンチでは、床面に敷かれた河原石や十数点の土器が出土しました。玄室は全面に河原石が敷かれていたと考えられます。前方部石室では、後円部でみられるような墓道はありませんでした。
現在、石室は埋め戻して保存しており、羨道の入り口の側石のみを見ることができます。

 

説明板には発掘調査時の写真も。

f:id:massneko:20211230221503p:plain

 

後円部も抉られた形での見学施設となっていました。

f:id:massneko:20211230221516p:plain

 

前庭部の墓道あたりに説明板。後円部の石室全長は15m近く!

f:id:massneko:20211230221739p:plain

後円部石室
ほぼ南に開口する両袖式横穴式石室で、玄室は長さ6.8m、幅2.1m、羨道は長さ8.1m、幅1.6~1.8m の規模を持ち、石室全長(玄室+羨道)は14.9mを測る長大なものです。玄室の高さは奥壁付近で3.3m を測ります。さらに墳丘の裾から羨道入口にかけては石積みの側壁をもつ全長9.8m の墓道(前庭部)があり、他にほとんど例がないものです。墓道(前庭部)の石積みは埋め戻して、表面は硬化真砂土で保護しています。
玄室の南寄りに、組み合わせ式石棺の底石がほぼもとの位置で発見されました。その他にも石棺の石材が発見され、これらは補強して現地に組み立てて復元しています。玄室の床には河原石が敷かれていました。
羨道には人頭大の石を積んだ閉塞施設が残っていました。
石室からは、双龍環頭大刀柄頭をはじめ、土師器、須恵器、武器、馬具など多くの遺物が発見されました。

f:id:massneko:20211230221720p:plain

 

扉は施錠されていて、ボタンを押すと玄室に明かりが灯りました。

f:id:massneko:20211230221530p:plain

遠いです。

 

ズームで。説明板の写真だと、石棺の底石しか写っていませんね。

f:id:massneko:20211230221541p:plain

 

カメラの位置を上にしてズーム。

f:id:massneko:20211230221641p:plain

 

墳丘を、後円部の先端側から。

f:id:massneko:20211230221807p:plain

 

くびれ部に設けられた階段。

f:id:massneko:20211230222107p:plain


くびれ部に上がって振り返って。

f:id:massneko:20211230221903p:plain

 

くびれ部から後円部を。

f:id:massneko:20211230221923p:plain


後円部墳頂から先端方向。

f:id:massneko:20211230222031p:plain

 

振り返っての前方部方向。広い墳頂です。

f:id:massneko:20211230221942p:plain

 

くびれ部に近い側から前方部方向を。

f:id:massneko:20211230222017p:plain


前方部の端から見た後円部。

f:id:massneko:20211230221843p:plain

 

前方部端から先端部方向(南西)

f:id:massneko:20211230222048p:plain

 

立体模型もありました。

f:id:massneko:20211230222127p:plain

 

後円部の石室の様子がよくわかりました。

f:id:massneko:20211230222204p:plain

 

そこには、興味深い古墳の築造方法の解説も。

f:id:massneko:20211230222138p:plain

二子塚古墳を再現した 64分の1縮尺の立体模型です。
後円部墳丘は東南部分の約3分の1をカットし、横穴式石室の構造を見ることができるようにしています。カットした断面には盛土の様子を表しています。天井石がすべて失われていた前方部石室は、残された奥壁と側壁の石積みを表現しています。
【墳丘の築造方法】
土層断面の観察から様々なことがわかりました。墳丘を強固にするため、赤褐色、黒色、灰色、黄色の4種類の土を交互につき固める方法(版築状盛土)で造られています。
まず、尾根をなだらかに整地し、石室を設置するための墓壙と周溝を掘り込みます。次に、墓壙に石室の基底石を据え、土をつき込んで固定します。さらに、積み上げた側石の高さの小円墳状の盛土(第1次墳丘)で固めていきます。同時に、墳丘の外形を形成する土手状の盛土をめぐらせ、第1次墳丘との間を水平に盛土して墳丘の形を造っていきます。
同様の手順で、段階的に側石を積み上げ、小円墳状の盛土を造りながら、次第に前方後円墳の形を造りあげていったようです。

f:id:massneko:20220105221509p:plain

 

前方部左裾から墳丘を(左奥が後円部)

f:id:massneko:20220116215445p:plain