前回のつづきの山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館。
入場料は一般200円。他に見学者は無く、行った時点で電気をつけていただいた。
大きな展示室の中央に縄文期の復元住居がある。
反対側に回ると作業をする人々がいた。なかなか広い室内。
5500年前の押出遺跡(ムラ)の住居を復元していた。
ジオラマも。
竪穴住居跡の平面は円、楕円、方、長方形と多彩なのだそう。
展示は旧石器時代の飯豊町上屋地遺跡から始まるが、縄文時代が厚い(熱い?)
台ノ上遺跡(縄文中期:5000~4500年前)出土の縄文土器。解説には、発掘された土器は渦巻文などの隆起文による”雄大豪壮な感じ”のものが多いと記されていた。
高畑町には日向洞窟、火箱岩洞窟、大立洞窟、一ノ沢岩陰など、縄文時代草創期からの洞窟遺跡(国指定史跡)がある。そこから出土した石器や土器の展示。
グーグルマップにも史跡の位置が示されていて興味を惹かれたが、雪だとアプローチが難しそうだったので別の季節に、とした。
そしてもうひとつ展示ボリュームがあったのが古墳時代!
古墳時代の遺跡は置賜(米沢)盆地や山形盆地南部に集中する。
置賜地方の遺跡地図。解説パネルには「歴史が沈黙している部分は、墳墓がこれを語ってくれる」と書かれていた。
オイタミ、ナガイ、ミヤギ、アカイ、ヤシロ、ヒロセの各エリアに分かれた古墳分布。
時代とエリアの2軸の墳丘変遷図。左上の前方後方墳は宝領塚と天神森。その右下の前方後円墳が稲荷森古墳。
置賜地方の古墳時代の前期と後期の特長が解説されていた。
古墳時代前期
4~5世紀の、古墳時代前半期、置賜では前方後方墳や方墳が多く造られた。在地の首長たちの古墳である。ヤマトの勢力を象徴する前方後円墳は置賜では4世紀の後葉に出現し、前方後方墳にとって変わる。前期には、日常の容器も土師器が主で、須恵器はまだほとんで使われていない。古墳時代後期
5世紀末に、土師器や須恵器をはじめ生活用具や、集落の立地、古墳の規模や形式が大きく変化する。その背景には「倭の五王」に象徴されるヤマト政権の政治力充実がある。埼玉県稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた「ワカタケル大王」時代以降の、全国的な政治的再編成とみられる。置賜の横穴式石室の古墳は、富裕農民層の家族墓が多い。
個別の古墳についての解説・展示も充実していた。
パネルを前期古墳から。まずは稲荷森古墳。「長岡山の丘の一部を切断して構築」とあった。
前期蒲生田山(がもうだやま)古墳群は稲荷森古墳の北約4km、南西に延びる稜線上にあって、2つの前方後方墳とひとつの前方後円墳(いずれも主軸長は30mほど)が約50m間隔で並ぶそうだ。
川西町の天神森古墳は次の機会に訪ねたい。全長75mの前方後方墳。
こちらは古墳時代終末期の古墳。
終末期の古墳(飛鳥・奈良時代の墳墓)
古墳時代後期の古墳は6世紀の終わりころ姿を消すが、7世紀後半になって特定の地域にのみ再び造られるようになる。置賜地方では最上川東部地域に、横穴石室の円墳群が8世紀の半ば過ぎまで造られ、追葬も行われた。これはヤマト王権政府の進出に伴ってつくられた終末古墳である。役所の役人や豪族などの墓をみられ、飛鳥・奈良時代の墳墓とも言える。
山形市のお花山古墳群(5世紀後半~6世紀、古墳時代後期)
そこから出土した勾玉、管玉、小玉の装飾品。
同古墳群からは乳文鏡や変形捻文鏡(ねじもんきょう)も。
直前に訪問した羽山古墳。追葬された人骨は12体以上と記されていた。
資料館の隣にある安久津古墳(2号墳)
1号墳の発掘写真もあった。
安久津1号墳からは、三累環頭太刀の束頭と鞘尻が出土している。
川西町の下小松古墳群は4世紀代から6世紀前半まで200基余が築かれた。
下小松古墳群の分布図。積雪時に訪ねなくて正解だったようだ。
眺めが良さそうな立地の戸塚山山頂古墳。
米沢市のサイトにも記載があるので、次の機会に登ってみたい。
http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/1771.html
下記右が、その戸塚山山頂古墳(137号墳)の発掘時の写真パネル(竪穴式石槨) 、左は下小松61号墳の割竹形木棺。
高畠町には奥行き2.6m、幅2.3mの玄室を持つ金原古墳もある。
たまたま企画展「古墳時代から中世の考古資料」も開催されていた(2018/12/8~2019/3/31)
ムラの遺跡から出土した機織の部品。
糸を紡ぐ紡錘車も。
考古資料館のサイトでは常設展示の様子が多く紹介されていた。
http://ukitamu.pupu.jp/?page_id=12
ロビーにはなんと「資料館付近の古墳分布図」もあった。
とりあえず、すぐ東側の古墳を訪ねてみることにした。