墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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神田界隈の寺社とモダン建築・4 一口太田姫神社~淡路坂~湯島聖堂~相生坂~昌平坂

前回のつづき。

ワテラスから御茶ノ水駅へ。外堀通りの東側にも平日朝の出口専用の臨時改札口がある。日立製作所本社への通勤客向けとして作られたものか。

 

上り・下りのホームの東端から階段で上った出口。 

 

たまたまここを通りかかった時、数人のグループを連れた案内ガイドの方がいらして、よく通る声での話を横で聞くことができた。改札横の木に、鳥の巣箱のように取り付けられているのは太田姫稲荷神社の元宮だった。

 

現在は御茶ノ水駅から南に400mほど、坂を降りたあたりに鎮座する太田姫稲荷神社がもともとあった場所。昭和初期に総武線を通す工事でここから移転したそうだ。

一口と書いて「いもあらい」と読むことを知った。

 一口(いもあらい)太田姫神社

一口である太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田川を開削した時 江戸城の結界また鬼門の護り神として旧江戸城(現皇居)よりこの地に移された。
昭和6年(1931)総武線開通に伴い現在の駿河台下に移る 尚鉄道(「甲武線」中央線の前身)は濠の中にあり開通時天皇家との間に濠幅を減じない中で商業を営まない環境を守るとの約束がある(明治期鉄道史より)
この木は椋(むく)の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫

 

神社のすぐ前は淡路坂。

この坂を淡路坂といいます。この坂には、相生坂、大坂、一口坂などの別名もあります。坂上には太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があり、これが町名・坂名の由来といわれます。一口坂は、太田姫稲荷が一口稲荷と称したためです。 

 

中央・総武線に沿って東へ下る。

 

 南へズームするとニコライ堂が見えた。

 ついこないだ行ったと思ったら2014年だった。

ニコライ堂(東京復活大聖堂教会) 重要文化財 千代田区神田駿河台 - 墳丘からの眺め

 

北方向、中央・総武線と神田川の対岸には湯島聖堂が見えた。

 

聖橋を渡って湯島聖堂へ向かう。神田川に架かる鉄路は地下鉄丸ノ内線。機会を伺っている撮り鉄の方がいらした。

 

湯島聖堂の美しい壁。

 

江戸から変わらぬ風景で、東側から広重が描いている。

昌平橋聖堂神田川を新しいウィンドウで開きます。

昌平橋聖堂神田川 | 錦絵でたのしむ江戸の名所(国立国会図書館公式チャンネル)

 

橋を渡ると、史跡・湯島聖堂への入口があった。

史跡 湯島聖堂
孔子廟、神農廟と昌平坂学問所跡
所在地:東京都文京区湯島1-4-25
敷地面積:13.915㎡
国の史跡指定:大正11年(1922)3月8日
所管:国有財産 文化庁・東京都教育委員会・文京区教育委員会
管理者:公益財団法人 斯文会(しぶんかい)
■湯島聖堂と孔子
孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省濟寧市曲阜)に生れた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄3年(1690)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。
■昌平坂学問所跡
寛政9年(1797)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生れた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。
学問所は、明治維新(1868)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。
学問所教官としては、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一齊、安積艮齊、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一齊、安積艮齊らはこの地が終焉の地となっている。
■近代教育発祥の地
明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年(1871)には文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館(しょじゃくかん)」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。
■現在の湯島聖堂
もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正12年(1923)関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。

 

一旦下がって入徳門をくぐって上がる。(門をとりそびれてしまった)

 

こちらの公式サイトに各施設の概要がある。

史跡の全容|史跡湯島聖堂|公益財団法人斯文会

 

左手の斜面で草を食む馬の姿があった。

 

 杏壇門から回廊内へ入る。

 

昭和10年に再建された湯島聖堂。設計は伊東忠太、施工は大林組。

 

大きな扁額がある。

 

潮を吹いているような鴟尾があった。

 

内側から見た杏壇門。

 

有料だが大成殿の内部も拝観できた。全体が黒く塗られている。

 

孔子像に近くから参拝。

 

並べられた器具に異国情緒があった。

 

 外へ出て壁の内側を下る。

 

敷地内にある分厚い築地塀。

 

綺麗な色の椿があった。

 

その先には大きな由緒ある楷(かい)の木。

 

説明書きがあった。

楷樹の由来
楷:かい 学名:とねりばはぜのき うるし科
楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で初め子貢が植えたと伝えられ 今日まで植えつがれてきている 枝や葉が整然としているので 書道でいう楷書の語源ともなったといわれている
わが国に渡来したのは 大正四年 林学博士 白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り 東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深いところに頒ち植えられた

その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが性来雌雄異株であるうえ 花が咲くまでに30年位もかかるため わが国で種子を得ることはできなかったが 幸いにして数年前から2,3ヶ所で結実を見るに至ったので 今後は次第に孫苗がふえてゆくと思われる
中国では殆ど全土に生育し 黄連木黄連茶その他の別名も多く 秋の黄葉が美しいという台湾では燗心木と呼ばれている 牧野富太郎博士はこれに孔子木と命名された
孔子と楷とは離すことができないものとなっているが 特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える
昭和四十四年己酉秋日 矢野一郎 文 平成二十年戊子秋日 松川玉堂 書

 

太い幹。うるし科だったので触れなかった。

 

その先には台北市から贈られた世界最大の孔子の銅像。 

 

東側の仰高門から出た。

 

こちらの斯文会館で書籍や記念品を購入できる。

 

外へ出ると神田川沿い坂に説明板があった。

相生坂(昌平坂)
神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。
「東京案内」に「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂と呼ばれるようになった。
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
 これやこの孔子の聖堂あるからに 幾日湯島にい往きけむはや 法月歌客

 

そこから見た西方向。広重の絵の雰囲気が残る名坂。 

 

反対方向は秋葉原。

 

道の対岸、神田川縁に並ぶ建物。ビリヤード屋さんは中央線からよく見える。

 

北へ向かう道にも築地塀が続いていた。

 

道沿いにあった昌平坂の説明板。昌平坂が孔子の生地の昌平郷に由来することは今回知った。

 昌平坂 湯島1丁目1と4の間

湯島聖堂と東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平こう)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平こうを今に伝える坂の名である。
元禄7年(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。

萬世の秋もかぎらじ諸ともに まうでゝ祈る道ぞかしこき

文京区教育委員会 平成18年3月

 

坂上から。

 

築地塀は突き当たって左側にも続いていた。湯島聖堂の北辺で、道は湯島坂になる。

つづく。