墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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湯島天満宮(湯島天神) 天神石坂(男坂)・女坂・夫婦坂 切通坂 東京都文京区湯島

湯島天神の最寄駅は千代田線・湯島駅だが、御茶ノ水の聖橋を北に900mほど直進すると湯島天神に突き当たる。

 

鳥居脇のイチョウの前にあった説明板。室町期に地元の人によって勧請されている。

湯島天満宮 文京区湯島3-30-1
社殿は平成7年(1995)総檜木造りとして造営された。平成5年(1993)お木曳き(造営の開始)の神事が行われ、遷座祭(完成)まで2年7ヶ月を要した。
祭神は菅原道真である。伝承によれば文明4年(1355)湯島の郷民が霊夢によって老松の下に勧請したといわれている。その後、太田道灌が社殿を再興し、江戸時代になって、徳川家康はじめ歴代の将軍があつく庇護し隆盛をきわめた。かって、湯島天満宮は”湯島天神”として知られ鳥居前には町もでき人々の往来で賑わった。
・銅製表鳥居(都指定文化財)寛文7年(1667)9月創建され、同11年(1671)修理した銘がある。下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。
・奇縁氷人石 嘉永3年(1850)10月江戸で初めて建てられたもので、右側面に「たづぬるかた」左側面に「をしふるかた」とある。迷子探しの石で都内でも貴重なものである。
文京区教育委員会

 

上記の説明にある、鳥居脚の唐獅子。こんな場所にあって350年耐えている。

 

手水舎の隣の「撫で牛」

 

拝殿で、感謝と祈願をさせていただいた。

公式サイトによれば、当宮は江戸時代から湯島天満宮、湯島天神と呼ばれていて、明治維新からは正式名称が湯島神社となったが、平成12年に湯島天満宮に改められたとのこと。公式サイトのロゴは「湯島天神」とあるがそれは通称なのだそう。

http://www.yushimatenjin.or.jp/pc/qa/f_qa.htm##14

 

梅園に架かる橋には雪が残っていた。

 

1月下旬だったが、咲いている梅も何輪かあった。

梅の見頃は2月下旬とこのと。 公式サイトで昨年の様子がわかる。

http://www.yushimatenjin.or.jp/pc/ume/kaika29.htm

 

境内から東に降りる天神石坂(男坂)はなかなかの傾斜。ここが本郷台地の端であることが実感できる。

 

下から見上げて。

 

石段脇の説明板。

天神石坂(天神男坂)
38段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。
江戸時代の書物”御府内備考”によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。

 

石段の北側斜面は梅園だが、こちらは全く咲いていなかった。

 

梅林脇の細道を回って女坂へ向かう。

 

細道に面して風情のある板壁のお宅があった。 

 

突き当たって女坂を登る。

 

坂の中腹から板壁家。梅が咲いたら絵になりそう。

 

坂上から振り返って。

 

再び境内に戻って拝殿の右を奥へ進む。左は本殿。

 

その先に、春日通りへ降りる夫婦坂があった。

 

そこから境内を振り返って。数え切れないほどの絵馬は他数ヶ所にも沢山掛かっていた。

 

夫婦坂を下から。豪華な神門だった。

 

降りたところは本郷三丁目へ緩やかに上る切通坂(きりどおしざか) 

 

石垣に埋めこまれた説明板。

切通坂(きりどおしざか)
湯島3丁目30と4丁目6の間
「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり。是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷3,4丁目の間より池之端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
映画の主題歌「湯島の白梅」”青い瓦斯灯境内を 出れば本郷切通し”で、坂の名は全国的に知られるようになった。
また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂でもある。
 二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 勤めなればかな  石川啄木
文京区教育委員会 平成11年3月