前回のつづき。
清水坂下から清水坂を上って北に進むと、三組坂上の交差点に出る。
そこから東に見下ろす三組坂(みくみざか)
ホテルの石垣の前にあった説明板。三組は、かつての町の名前だった。
三組(みくみ)坂
元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。
その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。
この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。
元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島三丁目となった。
文京区教育委員会 平成19年3月
位置はここ。
三組坂から南への枝道。
頑丈な車止めが。
中腹から見上げる三組坂。
そこから見下ろす三組坂。
三組坂の上記の場所から北に下りる枝道は「ガイ坂」
少し進んで振り返ったところ。
ガイ坂には標柱や説明板はなかった。
こちらの坂学会のサイトには、別名「芥坂(ごみざか)」で、旧三組町の裏通りの横町でゴミを処理する捨場であったからという、「ぶんきょうの坂道」出典の由来が紹介されていた。
http://www.sakagakkai.org/profile/bunkyo/gaizaka.html
ガイ坂から道なりに北へ進むと、左の枝道に見事な階段があった。
電設工事の車の陰になっているが、下は幅の狭い階段になっている。
狭い部分を上から。
町名表示板が斜め上を向いて取り付けられていた。
その上で階段の幅が拡がる。
元は上まで同じ幅で後から拡張されたのだろう。蹴上げの面についた白い跡が名残りでは。
坂上からの眺め。
工事の囲い壁の前に説明板があった。ここで平家物語が出てくるとは。
実盛(さねもり)坂 湯島3丁目20と21の間
「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。
実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。
湯島の”実盛塚”や"首洗いの井戸”の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
文京区教育委員会 平成14年3月
ガイ坂からの道に戻って北へ進むと突き当たりが中坂になる。
左に見上げる中坂。
説明板によれば、妻恋坂と天神石坂との間にあるので中坂とのこと。
中坂(仲坂) 湯島3-19と21の間
「御府内備考」に「中坂は妻恋坂と天神石坂の間なれば呼び名とすといふ」とある。
江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂よりあとにできた新しい坂ということになる。
また「新撰東京名所図会」には「中坂は、天神町1丁目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。
このあたりは、江戸時代から湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。
まゐり来てとみにあかるき世なりけり 町屋の人のその人の顔かお (釈 迢空)
東京都文京区教育委員会 平成元年11月
上記には妻恋坂と天神石坂より新しいとあるが、 三組坂や実盛坂より古い(どちらもやはり妻恋坂と天神石坂との間にある)ということにもなるか・・・
坂上から見た中坂。
坂を降りずに北を向くと湯島天神は目の前になる。