墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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土屋塚古墳 狛江(岩戸・駒井地域)の文化財めぐり・その2

前回のつづきの、狛江市教育委員会主催ツアーより。

世田谷通りの「一の橋」と「新一の橋」の2つの信号の間にある枝道を南へ向かうと駐車場の先に土盛りが見えてきた。

 

古墳との境の壁は古墳の名称と同じ表札が掛かっていた。

 

入口があるが鍵がかかっている。

もしかしたら、という期待があったが外からの見学のみだった。 

 

なかなか立派な墳丘。鳥居の先に踏み跡はあるが・・・。

 

すぐ東側にマンションが迫っており、墳丘からは住人のお部屋が見えてしまうことを配慮して公開はしていないとのことだった。

 

道沿いにある説明板を前に解説を受けた。

 

現地の解説板。

狛江市指定文化財(市史跡) 土屋塚古墳
指定年月日:昭和61年1月4日
土屋塚古墳は、狛江古墳群のうち岩戸の地に残された数少ない古墳のひとつとして、また墳丘の遺存状態が良好な古墳として、昭和61年に市史跡に指定されました。
平成16年には、墳丘の南側から東側にかけて発掘調査が行われ、古墳築造の時期や当初の形態・規模が明らかになりました。直径33m、高さ4.5mを測る円墳で東側に造り出し部を有し、その外側に幅1.5mほどのテラスと幅10mほどの周溝が取り巻くことが判明しました。
周溝からは、もともと墳頂や墳端に並べられていた埴輪が、周溝内に転落した状態で出土しました。これら埴輪は、製作技法から上野(かみつけ:現在の群馬県)に拠点をおく工人集団が、この付近で採取される粘土で製作したものと考えられます。また、河内地方を起源とする装飾が施された朝顔型円筒埴輪や鳥付円筒埴輪なども出土しています。造出部付近からは、土師器の大型壺、高坏などが出土しており、造出部で墓前祭祀が行われたものと考えられます。
土屋塚古墳は、出土遺物から5世紀第3四半期頃に築造された古墳と考えられます。多摩川流域では5世紀に入ると、それまで古墳が築造されなかった野毛(世田谷区)の地に、野毛大塚古墳に代表される大型の帆立貝形古墳が築造されはじめます。これは畿内における王権の変遷と関連するものと考えられますが、狛江の地でも、野毛地区の動向と連動して、5世紀半ばから古墳の造営がはじまります。土屋塚古墳は、そのなかでも比較的早い時期に築造された古墳で、帆立貝形を模した造出部を有するなど、多摩川流域の古墳文化の動向や、当時の地域の諸関係を知るうえで大変貴重な古墳です。
平成27年3月 狛江市教育委員会

 

土屋塚古墳は野毛大塚古墳のような帆立貝形をしていたが造り出し部があった場所は墳丘の東側で、今はマンションが建っている。

 

実測図部分のアップ。

 

以下はいただいたリーフレットから。

土屋塚古墳

狛江市の史跡に指定されている古墳です。直径約35m、高さ約4mほどの円墳で、平成16年に狛江市教育委員会が調査を行い、幅約10mの周溝がめぐっていることが確認されました。また周溝からは多くの埴輪片が出土しており、墳丘や墳端に並べられていた円筒埴輪が周溝に転落したものと考えられます。古墳の築造時期は、出土した埴輪から5世紀中頃と考えられます。墳丘や埋葬施設の調査はなされていませんが、レーダー探査の結果から、2基の主体部が残っていると考えられます。

 

右はマンション入口側。道沿いも墳丘を削った面はコンクリ壁で補強されている。

 

コンクリの先は墳丘。手を伸ばせば墳丘に触れることはできる。

 

結構樹木も茂っていた。

 

住宅街の中なので周囲の地形は把握しづらいが、この古墳も台地の端、ゆるく傾斜が始まっていく地点に立地していた。

 

道の奥が古墳。手前側に道はゆるく下っている。

下った先には、かつて「岩戸川」が流れていた。

 つづく。