墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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慶岸寺(庚申塔)~六郷用水跡(石橋供養塔) 狛江(岩戸・駒井地域)の文化財めぐり・その1

東京文化財ウィーク2016のパンフを見ていたら、狛江市教育委員会主催のツアー案内があったので参加しました。

テーマは「狛江の魅力を歩いて学ぼうー岩戸・駒井地域をめぐる」

パンフに寺社や史跡をめぐるとあったので、狛江なら古墳も含まれているであろうと予想していたら、なんと3ヶ所も!

 

下記は当日いただいた10頁程あるリーフレットから。

赤いラインを半時計回りに各所で解説を受けながら約3時間、川跡や旧道を、高低差を味わいながら楽しく歩きました。

 

10月29日(土)の午後1時に小田急線の喜多見駅前集合。この日の駅前広場は仮装した子どもたちで大賑わい。

 

広場に面してNゲージ専門の模型屋さんもあります。 

 

駅前(南口)の案内地図はなぜか現在地が端によっていました。隣駅の成城学園前駅のほうが中央寄り。今回歩いたルートは左に切れた部分がメイン。

 

参加者は20人ほど。係りの方に先導されながら二の橋商店街を世田谷通り方向へ進みます。

 

途中にあった、気になるおもちゃ屋さん。

 

沖縄の雰囲気の一画。

 

昔ながらの定食屋さん。

 

最初の目的地は慶岸寺。

 

現在の本堂は新しい頑丈なつくりですが、慶岸寺の創建は慶長17年(1612)

もともと在地の土豪の墓地であった所が、寛永期に寺院として整備されたものと考えられるとのことです。

江戸時代の初め、幕府の寺請制度によりすべての民衆は寺院の檀家となって宗門人別帳で管理されるようになったため、この時期には新たに多くの寺が建てられています。

 

お目当ては墓地の入口に立つ庚申塔。

 

中国の道教の思想に由来する庚申信仰ですが、日本に伝わったのは平安時代頃で、室町時代頃に庚申待が行われるようになり、江戸期には各地の村々で庚申待を行う庚申講が結成されるようになったとのこと。

慶岸寺の庚申塔は地蔵菩薩が彫られていて多摩地域に残る庚申塔では最も古い時期の寛文2年(1662)の建立。延宝年間(1673~1681)頃になると、庚申の本尊として青面金剛が普及していきますが、それ以前は仏像や菩薩像が彫られていたそうです。

(いただいたリーフレットより)

 

境内にはこちらの”塩地蔵”も祀られていました。

 

墓地のとなりのアーティスティックな家。

 

側面にも長く続いていました。参道通用口は世田谷通りに面しています。

 

ここで世田谷通りの「二ノ橋」の信号を渡ります。「二の橋」の表示もありました。

奥の大木の隣が旧大山道。

 

世田谷通りに沿って西へ進みます。通り沿いの広い敷地にヤマダ電器とニトリの大型店舗ができつつありました。

 

その少し先で解説タイム。

 

ほぼ同じ位置での昭和47年の写真には「六郷用水」がありました。ニトリが建つ場所は写真に見えるかつてのカゴメ多摩川配送センターの敷地だそうです。

リーフレットの「六郷用水」の説明文。 

多摩川の下流域左岸(大田区の辺り)は、低地でありながら多摩川沿いが台地(武蔵野台地・国分寺崖線)であるため、多摩川からの引水が難しい地域でした。

徳川家康は、天正18年(1590)の関東入国後、治水工事に着手し、駿河国富士郡小泉郷(現在の富士宮市)出身の小泉次大夫を灌漑用水路の工事代官に任命しました。工事は慶長2年(1597)に始まり、同16年に完成しました。用水路は大田区の六郷地域の水田をうるおすことから、六郷用水と呼ばれました。また、工事代官の小泉次大夫にちなんで、次大夫堀とも呼ばれます。

大正時代になると、大田区域の水田は宅地や工業用地に姿を変えていき、六郷用水も排水路へと役割が変わっていきました。戦後、六郷用水の水利組合が廃止されると、用水路は本格的に排水路として利用されるようになり、さらに下水道の整備が進められると、下水管を埋設し、不要な用水路は埋め立てられていきました。狛江の用水路も昭和40年代以降に埋め立てられていきました。

 

今回のウォーキングルートのすぐ近く、世田谷区喜多見5丁目には野川の水を取り込んでの次大夫堀公園が復元されているので次の機会に訪ねてみたい。

かつての六郷用水の下流部分は、次大夫堀公園から1.3km南東から丸子川として今も途中までですが流れを保っています。

 

このあたりでは滔々と流れていました。

上野毛自然公園・二子玉川公園 東京都世田谷区上野毛・玉川 - 墳丘からの眺め

かつてはここで多摩川に注いでいました。

六郷水門・六郷排水機場 東京都大田区南六郷 - 墳丘からの眺め

 

 

現在の世田谷通りの歩道側に残る川跡。

 

上記の位置の反対側。 この先に「一の橋」の信号があります。

現在、川は埋め立てられてなくなっていますが、「一の橋」や「二の橋」の場所の名に痕跡を残しています。

 

「一の橋」の交差点には、石橋供養塔があります。弘法大師像の下に「石橋供養塔」と刻まれていおり、文政6年(1823年)の建立。

江戸期には架橋時での安全祈願や、架け替えや修復時での石橋供養がなされていたとのこと。石には世話人や供養にあたった僧の名が刻まれています。

 

さらにこの塔には昔の古道の行き先が刻まれており、古道のルートを推定できる貴重な資料となっていました。狛江の古い道 - 狛江市役所

 北  ほりの内 高井戸  道

 東  六郷 江戸  道

 つづく。