墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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久地円筒分水 神奈川県川崎市高津区久地

前回のつづき。

溝の口駅から宗隆寺の横を通り、国道246号で分断された対岸にもつづいていた「久地円筒分水」への道。

 

壁からのパイプは静脈系開渠の名残りか。

 

少し行くと左手に、丘の斜面を覆いつくすようなマンションが。

 

その先には美しい構造物があった。 

 

非常に残念ながら水が流れていなかった。清掃中だったか。

 

わかりやすい説明板。

国登録有形文化財 二ケ領用水久地円筒分水
この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16年(1941)に造られました。内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される、当時の最先端を行く装置でした。
平成10年(1998)6月9日に、国登録有形文化財となっています。

 

左から流れてきた二ヶ領用水が平瀬川をくぐって円筒の中から吹き上がる(説明板の図:下記の川崎市のサイトより)

 円筒分水平面図、縦断図http://www.city.kawasaki.jp/530/page/0000018473.html

上記のサイトには分けられた水の行く先も示されていた。

水量にかかわらず、円周の長さの比で正確に分水される。

円筒分水平面イメージ図

 

中央が溝口ぼりへ。右が小杉ぼりへ。奥が根方ぼりへ。

 

根方ぼり側から見たところ。

 

円周の4分の3ほどが川崎ぼりへ。 堀の両側に門番のように、立派な桜が立っていた。

前出のサイトには満開時の写真もある。

 

その川崎ぼりの下流方向。

 

円筒分水を設計した平賀栄治氏の顕彰碑。

二ヶ領用水400年・久地円筒分水70周年祈念
平賀栄治顕彰碑
この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治が設計し手がけたもので、昭和16年(1941)に完成した。多摩川から取水された二ヶ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で4方向へ泉のように用水を吹きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
平賀栄治は明治25年(1892)甲府市生まれ、東京農業大学農業土木科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て、昭和15年(1940)に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事業所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に前著区を捧げた「水恩の人」は、昭和57年(1982)89歳の生涯を閉じた。
平成22年(2010)3月27日 寄贈:川崎西ライオンズクラブ結成45周年記念事業

 

土木遺産のプレートも。 

土木学界選奨土木遺産2012の認定
二ヶ領用水は江戸幕府の用水奉行・小泉次大夫の指揮のもと、江戸時代直前の慶長2年(1597)に開削着手されました。現在の多摩区から川崎区にわたる灌漑用水路として、14年におよぶ歳月をかけて慶長16年(1611)に完成しました。当時の川崎領と稲毛領の二つの領に水を引いたことが名前の由来とされています。
現在では農業用水の役割をほぼ終えつつありますが、都市化のなかで憩いや安らぎを与えてくれる水と緑の空間として、また川崎市の発展の礎を築いた歴史のシンボルとして、多くの市民に愛され、親しまれています。
本用水は当時とは姿を変えていますが、多摩川流域では最古で最大の農業用水であり、現在にもその機能を残す貴重な土木遺産として後世に残すべきとの評価を得て、平成24年度に土木学会により認定されました。

 

北から流れてきた二ヶ領用水で、ここで左からの平瀬川と合流する。

正面の堰を閉め切ると水位が上がり、奥にちらりと見える分流の取り入れ口からの水が平瀬川地下の水路を通って円筒分水へ向かう仕組み。

 

奥からが平瀬川で、右からが二ヶ領用水(動画17秒)

 

帰路は、すぐ北の府中街道にあったバス停「新平瀬橋」から溝の口行きに乗車。