墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

久地神社~作延城址 神奈川県川崎市高津区久地・下作延

今日から、一旦ストック記事を。

今春は秩父や飯田を訪ねてネタが豊富になってしまったので、未エントリの春編が残っていました。

一つ目は、3月末に川崎市高津区の久地円筒分水を訪ねた際の続きです。

 

そこから南西の山の方へ行ってみました。

 

こちらは円筒分水のすぐ南にあった久地神社。

 

社殿前には新しい注連縄が巻かれた大木が。

 

後ろの丘陵とは標高差30mほど。武蔵野台地の東縁に比べると差が大きい。

 

登って見下ろした谷戸。右下は久地神社の隣に参道があった久地不動尊守護尊寺。

 

ズームすると新宿高層ビル群も。途中の緑は岡本静嘉堂緑地。

 

丘上の住宅地は細い尾根筋で、すぐに下りが待っていた。尾根の名前は津田山(七面山)

 

下から見上げた階段。

 

その先でさらに降りる。

 

斜面に設けられた公園。

 

公園脇の階段。

 

下っていくと川のトンネルが。平瀬川が丘の裏側の久地円筒分水に向かって流れていく。ちなみに円筒分水には流れ込まず、真横を通って多摩川へ出ている。

 

Wikipediaの「平瀬川」の項によれば、この「平瀬川トンネル」は昭和15年~20年に県営多摩川右岸農業用水利改良事業の一環で、下流の溝口付近の洪水被害を解決するために造られ、流路が付け替えられたそうだ。

 

その先の橋上から。

 

振り返った上流方向には南武線の橋。

MiwAさんのブログにて、源流へと辿る旅を追体験できます。

https://miwa3k.hatenablog.jp/entry/hirasegawa

 

津田山駅手前の踏切を渡り、一つ南の丘上を目指して細道へ。

 

途中で望めた北方向。高圧線が津田山(七面山)を越えて伸びています。

 

丘の上は広大な墓地。

 

緑ヶ丘霊園は川崎市営で計画面積59ha。TDL(51ha)より広い。 

 

Wikipediaの緑ヶ丘霊園の項を見ていて、訪ねてから半年後の今、霊園内に古墳があったことを知ったばかり。

津田山2号墳(直径約30mの円墳:5世紀中頃)や、稲荷塚古墳(直径約20m・高さ約2.8mの円墳:6世紀後半)で、ご~ご~ひでりんさんのサイトに探訪記と詳細な解説がありました。

http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-955.html

http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-954.html

http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-956.html

 

台地上の墓地、中世の城跡といえば、かなりの確率で古墳があるはずなのに…

再訪したいと思います。

 

このときは作延城址(さくのべじょうあと)の解説を撮って、よしとしてました。

作延城址
多摩川の右岸にそってのびる多摩丘陵は、自然の要害をなし、中世の頃鎌倉を守る外がわの防衛線として点々と山城が築かれました。今日、その伝承されるものには、小沢城・枡形城・作延城などがあり、また源氏の祈願所で頼朝の弟・全成が院主となった威光寺(現 妙楽寺)も丘陵の一画を占めていました。
当地は、山城を構えるのにふさわしい地形であり、「新編武蔵風土記稿」は城山堀・矢倉塚・天守台などの地名をあげ、この付近を作延城の跡と推定しています。
なお、世間では鎌倉時代の初期、ここから西4kmの枡形山(現 生田緑地)に本拠を構えた稲毛三郎重成が築いたものと言われています。
昭和60年3月 川崎市環境保全局

 

地図の部分のアップ。

 

そのあたりの台地南縁からの眺めは、木が刈られた直後で大変良好だった。

 

先のWikipediaには、霊園南側に6世紀頃のものと推定される多数の横穴墓が存在し、うち4基について平成元年に発掘調査が行われ、金環やガラス玉、鉄製品などが出土した(川崎考古学研究所蔵)とある。

この先の斜面にあるのではないか。

 

そこからは台地上の平らな墓地を西へ。 

 

ほぼ満開の桜。

 

桜の名所だとは知らなかったので、とても得した気分で。

 

水仙の群落も。

 

緑ヶ丘霊堂。

 

春の柔らかい光。

 

霊園の北西端に、ひっそりと県立東高根森林公園への入口があった。

つづく。