前回のつづき。
玉川大師参詣後は丸子川(六郷用水)を遡って岡本公園民家園へ行ってみた。
駐車場の西側に世田谷区立岡本公園民家園の入口があった。
月曜休園で9時半~16時半の公開。この日はお団子作りのような集まりがあった。
http://www.city.setagaya.lg.jp/shisetsu/1213/1265/d00122210.html
面積1、862㎡の園内には江戸後期の茅葺き農家と土蔵が移築されている。
茅葺き建物は、瀬田にあった長崎家屋敷の主屋。
世田谷区のサイトによれば建てられたのは18世紀末頃で、築200年以上になる。
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00128342.html
当初の間取りは広間型で、19世紀初期頃に喰違い四ッ間型に改修されたと推測されるそうだ。
土間の竈は現役。もち米が炊かれた後のようだった。
後ろ側から。屋根は寄棟造り。
庭に面して旧浦野家土蔵もある。 喜多見の敷地にあった外倉が移築された。
浦野家は菜種油や木炭などを販売し始めた嘉永~安政年間(1848~58)頃にこの土蔵を建て、明治初年頃まで店、その後は穀倉、戦時中は軍用物資の倉庫、戦後はアパ-トとしても使われたそう。桁行3間(5.4m)、梁間2.5間(4.5m)
屋根付きの井戸も作られていた。
管理棟には企画展示室もあった。
3月末まで「岡本の記憶をたどる 岡本と東京緑地計画」を開催中。入場無料。
ここから500mほど北には砧公園があるが、そこは昭和14年の東京緑地計画に基づき設置された都市公園だった。それまで農村地帯だった岡本は、この計画によって地区の改変や家屋の移動など大きな影響を受けたそうだ。砧公園がゴルフ場だったときの写真なども展示されていた。
http://www.city.setagaya.lg.jp/event/1991/d00131858.html
壁面に付近の立体模型が展示されていた。黒い線は旧道。公園の”裏山”になる静嘉堂文庫がある場所は平地に突き出た舌状台地であることがわかる。
管理棟の前には、根元近くから分岐した大木も。
民家園の外側の岡本公園。丘の麓に人工の流れや遊具、広場が整備されていた。
公園の一画に気になる説明板があった。
世田谷の誇る歴史遺産
岡本隧道
この案内板から右50m先、民家園の左奥に石垣囲いの蒲鉾型の扉があり「岡本隧道」という字が刻まれています。隧道とはトンネルのことで、扉の中は、高さ2m、幅2.5mのトンネルになっていて、そこには直径80cmにある送水管が通っていて、その長さは120mにも及びます。
1921年(大正10年)当時の豊多摩郡渋谷町(現在の渋谷区)では、多摩川の水を町に引き込もうと、大規模な水道工事を始めました。
砧下浄水場で取水・浄化した水は、駒沢給水所、三軒茶屋を経て渋谷に至り、地下の送水管は南西から北東に直線的に世田谷を跨いでいます。
水は、駒沢給水所までは揚水ポンプの力で高く持ち上げられ、給水所から渋谷までは自然の重力で送水されました。砧下浄水場を出てすぐに、この岡本の台地を横断しますが、揚水ポンプの負荷を少なくする工夫として送水管専用のトンネルが利用されました。
これらは、1923年(大正12年)に竣工した近代水道の建造物であり、今でも珍しい施設で、極めて貴重な歴史遺産です。
駒沢給水塔風景資産保存会・世田谷区
再び民家園の敷地に入っていくと、さきほどの井戸の後ろあたりにそれらしき入口があった。
見事な石組み、アーチ。 高さ2.5mということはかなり埋まっているようで、青い扉は開くのだろうか。ここから丘の下を120m通り、さらに3km先の駒沢給水棟へ向かう。
大正12年(1923)竣工ということで、碑文も右から刻まれていた。
民家園の北東側の門は旧横尾家住宅椀木門。
そこを出ると岡本八幡神社の参道、石段下になる。
門の脇にあった樹の蕾(?)
石段の途中で振り返って。右奥が民家園になる。
岡本八幡神社の拝殿。
拝殿前の広場。左は神楽殿、右は石段。
拝殿の左にさらに上る道があった。
丘上側からの神社入口。
その先には車の入れない細道があった。
峠のような道を進む。
台地の北側へ降りる長い階段があった。
下から見上げて。
さきほどの岡本隧道にはこの後戻って気づいたので、隧道の北側口は確認できていない。
石段を上り返すとき目が合った。
再び”峠道”を戻る。
その先を左に行くと静嘉堂文庫の裏門があり右の建物を回りこむとすぐに美術館入口になる。近道を”発見”した気分になった。
二子玉川駅からバスで来る際には、一つ手前の岡本民家園で下車し、八幡神社参道の一本右の坂道を上がるとかなりのショートカット。
その、参道脇の坂道がこちら。
コンクリで再整備されたばかりのようだった。
坂の途中で八幡神社への分岐がある。古そうな石段があった。
神社の裏手への”散策路”もあった。
そこにあった祠にもお参りした。
神社の石段を降りて、丸子川を下流へ戻った。