前回のつづき。
小平駅からの帰路、日没間近だったがまだ明るかったので、以前にこちらの本を読んでから気になっていた「下落合」で途中下車した。初めてここで降りた。
第四章の「神田川・妙正寺川流域~巫女集団の足跡」に下落合界隈での興味深い話が出土物写真や新聞記事とともに記載されている。
下落合は神田川と妙正寺川の合流点。台地の端で斜面に自然が残り、坂が多く神社も遺跡もある魅力的なエリアだった。
(訪ねた場所をつらつら記しているうちに写真枚数が80枚以上になりましたが、一気に載せたいと思います)
下落合駅で降りて北に出て妙正寺川を越え、下落合駅前交差点で新目白通りを渡る。
東方向に新目白通りから分かれる小道を進む。
上記の左の階段は一般のお宅のものだが、見上げると木造板張りの建物があった。
先へ進むと久七坂と交差する。左(北)への上り道。
標柱の解説。
久七坂(きゅうしちざか)
「豊多摩郡誌」には、もとは田んぼへ行き来するための道で、急な坂であったと記されている。坂名はゆかりのある村人の名にちなむものであろう。
S字を描く坂道を上ってみた。昭和の面影を残す門のお宅。
坂上から振り返って。坂下の新目白通り沿いにもマンションが林立していた。
坂下に戻って新目白通りに並行する台地下の細道を東へ。左手が台地上になる。
行き止まりの枝道。
元の道をさらに進んでいくと左に鳥居があった。
こちらが下落合弁財天。
小さいが池も橋もあるお宮に参拝。
橋上から振り返ったところ。
こちらの境内に下落合横穴墓群跡の解説板があった。
史跡 下落合横穴墓群跡(しもおちあいおうけつぼぐんあと)
所在地:新宿区下落合4-3
新宿区登録有形文化財・考古資料 下落合横穴墓出土品
所在地:新宿区三栄町22 新宿歴史博物館蔵
登録年月日 昭和61年3月7日
ここ下落合弁財天の裏手一帯は、昭和41年(1966)7月、宅地造成中に発見された下落合横穴墓群の跡である。
下落合横穴墓群は、7世紀後半から8世紀初頭頃のものと推定され、妙正川に臨む落合台地の側面に、川の氾濫を避けるように4基の横穴墓が確認された。
出土品のうち人骨2体と直刀(刀身79cm)は、新宿区登録有形文化財に登録され、現在は、新宿歴史博物館が所蔵し、横穴墓の断面模型などとともに常設展示のなかに展示されている。
平成7年8月 東京都新宿区教育委員会
写真部分のアップ。
昭和41年の宅地造成前の周辺一帯には、古墳時代終末期の横穴墓群が残っていた。
社殿の脇に続く細道。
進んでいくと広場のような場所に出た。周囲のお宅には階段で上がる。左の奥で、さきほどの弁財天に続く。
元の道に戻って進むと古そうな木造家屋も。
突き当たって左に折れると薬王院の門前に出た。山門が開いていたので参詣させていただいた。
山門を直進すると大きな庫裡。
斜面上の大きな建物が本堂とのこと。左の階段を上ってみた。
途中に六地蔵があった。
振り返ると斜面に剪定された植物群が。
薬王院(東長谷寺) | 一般社団法人新宿観光振興協会によると、こちらは牡丹の名所で、総本山の奈良長谷寺から移植され育てられた千株が4月に咲くそうだ。
台地上は墓地。
庚申塔を集めたような塔があった。
山門へ戻る途中、石段から見た眺め。
山門を出て境内周囲を時計回りに歩くことにした。こちらも行き止まり道。
境内西側の坂を進む。
途中で石段になった。
振り返った先は境内。
さらに石段は続く。
途中から南方向。
石段最上部。車止めにはうさぎとふくろうが。
途中で右折し境内の北辺を東へ。
その先に広い更地があった。
更地に面して立派な日本家屋が。
ぎりぎり残されているようだが・・・
その、蔵の脇から下り道。
竹垣がいい風情。
さらに下りると車止め。
脇のお宅は廃屋のようだった。
車止めから先は鬱蒼と、左右から木が繁る。今は”名前だけ”になっている都心の暗闇坂・幽霊坂もかつてはこのような雰囲気だったのでは。
左に石段。
上がった先のお宅も廃墟のようだった。
そのまま下ると右側は公園であることがわかった。
公園の中に入ると水の流れがあった。
池も。
池から振り返って。左上から右下への道を降りてきた。
途中で左へ抜けられそうな分岐道があったが、私有地のようなので戻る。
坂下に来ると「新宿区立下落合野鳥の森公園」の碑が立っていた。
さらに下った公園のフェンス。
台地下の道を東(左)へ向かう。
左手に上り坂。さきほどの私有地が気になったので上がってみた。
「ライトハウス・イングリッシュスクール」という看板があった。ブルーシートなのは修繕中?
その先の斜面には新しいマンション。
一部斜面がむき出しになっていた駐車場も3階建てのマンションになるようだった。
その東には七曲坂(標柱は撮りそびれました)
さらに進むと氷川神社。
新目白通り側にも鳥居があり、西武新宿線の車窓から社殿が良く見える。
日没になったので参拝は次の機会として、おとめ山へ向かう。
おとめ山の西縁を上る相馬坂に出た。
相馬坂(そうまざか)
この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。
車も通る坂だが、なかなかきつい傾斜だった。
坂上から。右手は新宿区立落合四小。
坂上の、おとめ山公園入口。芝生公園はまだまだ賑っていた。10月~3月は午後5時までの開園(その他は19時)おとめ山公園:新宿区
現在地は左上。下半分は斜面の森。
芝生の端の森の入口。
森の中に林間デッキがあった。閉園間近の時間。
見下ろすと池があった。秘境のような緑は地元の保存運動の成果でもあるそうだ。
進んでいくと公園の東側出入口。そのそばにスダジイが立つ塚があった。立地は古墳的。
ここを明るいうちに見たかったので、実はずっと早足だった。
近くにあった説明板。
おとめ山公園周辺の地形
おとめ山公園が所在する落合地域の「落合」とは、神田川・妙正寺川の流れが「落ち合う」ところであることに由来しています。この2つの川の浸食により低地、斜面(崖線)、台地という形ができ、かつては低地には水田、台地には農村が広がりました。斜面一帯は緑地となり、東西に連なる「斜面緑地」が生れました。その中におとめ山公園は位置し、今も豊かな緑が残されています。
江戸名所図会の「落合惣図」には、江戸時代の落合の様子が描かれています。西から下落合の台地を望み、蛇行する神田川・妙正寺川が落ち合っています。右手に田島橋があり、その向こうに氷川神社、薬王院、東山藤稲荷神社の社が見えます。
右図はおとめ山公園周辺の現況図に昭和初期(1930年頃)の地形を重ねたものです。公園周辺の台地には幾つもの谷がひだ状に入り込んでいたことがわかります。こうした谷の先端ではかつては湧き水が多くみられ、おとめ山公園では今も湧水が園内の流れや池をうるおしています。
道を隔てた東側につづく”谷戸のもり”を、塚の近くで眺める。
昇り始めていた月も。
東西の公園の間にある坂道。
こんな標識も。
坂下の西側、台地の裾に東山藤神社。
石段を上がった先に明かりのついた拝殿があった。
参拝して振り返ったところ。
拝殿の裏は、おとめ山公園の樹林。
参道のすぐ南は工事中。
神社の石碑は坂をさらに下ったところに立つ。
降りてきた坂は「おとめ山通り」
おとめ山通り
江戸時代、おとめ山一帯は将軍家の狩猟地で一般人の立入が禁止されていたため御留山(おとめやま)と呼ばれていた。
坂下から振り返ったところ。
坂下の水辺のもりへの入口。「帰りましょう」アナウンスが流れていた。
公園の東側の坂道。上るのは次の機会とした。
すぐ南の新目白通りを渡ると西武新宿線。
細道を選んで進む。
神田川を渡る。奥は山手線。
橋から西の風景。
ここから商店街を上がるとすぐに高田馬場駅に着いた。
最後まで見ていただいた方も、おつかれさまでした。