前回のつづき。
川端龍子記念館から100mほど東、龍子記念館入口の交差点から北に上る坂があった。
かなり古びた標柱に、臼田坂(うすだざか)
臼田坂
坂付近に、古くから臼田を姓とする人が、多く住んでいた関係から、この名が起こったといわれている。
坂の中腹、東側に朽ちたアパートが残っている。
その先で右への枝道を上ると、大田区による馬込文士村の解説板があった。
川端康成も住んでいた。
臼田坂の途中に住んだ 川端康成(1899~1972)
大阪府出身。19歳の時初めて伊豆に旅行して以来10年間湯ヶ島を行き来し、旅先で「伊豆の踊り子」などの執筆活動を行った。その後「雪国」「千羽鶴」「山の音」などを発表。文化勲章、ノーベル賞をうける。
川端康成は、友人の尾崎士郎の誘いで馬込に移り、この頃は主に文芸時評を執筆しています。無口で人付き合いの苦手な人柄でしたが、文士たちが多く住んでいた臼田坂の途中(この辺り)に住まいがあったため、尾崎士郎らの訪問を度々受けることになります。「賭で負けたので・・・」と、婦人がある日突然断髪姿で帰宅したり、自らもあらぬ恋愛の噂を立てられたりで、村野騒ぎを高見で見物・・・とはいかなかったようです。
参考文献 近藤富枝「馬込文学地図」 大田区
石坂洋次郎は学生時代、坂下のアパートに下宿。
臼田坂の下宿人 石坂洋次郎(1900~1986)
青森県生。教職の傍ら執筆活動を続ける。昭和11年「若い人」がベストセラーとなり、これをきっかけに上京。以後「青い山脈」「陽のあたる坂道」など庶民的な作品で人気を集めた。石坂洋次郎の下宿は、臼田坂の登り口辺りにあった九州閣というアパートでした。九州閣は”なかなか瀟洒な建物”で津村信夫、猪野謙二、立原道造らも住んだことがあります。このころ洋次郎はまだ大学生で、創作活動の方は手をつけるのみで、完成品はありませんでした。大学卒業後にようやく「海を見に行く」を書き上げますが、原稿を託した相手に忘れられ、仕方なく郷里に帰って教職につきました。石坂が再びペンをとり、作家として上京して田園調布にやってきたのは、昭和11年のことでした。
参考文献 野村祐「馬込文士村の作家達」 大田区
場所はこのあたり。
その東側には都営アパート。
上記の右の道を進むと萬福寺というお寺。
その先には桜の古木。
台地の縁についていた道は下り坂になった。
環状7号線が通る谷地形を隔て、向かいの丘に木立が見えた。
さらに下ると閉鎖された階段が。都営アパートに上る道のようだったが。
環七に出たので歩道橋を渡った。北方向。
少し右に目を移すと、さきほど見えた木立のある丘が。
グーグルマップには山王三丁目遺跡とあったので行ってみた。
環七から枝道へ。
その先は上り道に。
斜面の中腹を、台地の裾に沿ってカーブする道。
右手にはプライベート階段が何本も伸びる。
左手に「高稲荷神社」 下の道からは参拝路がない。
路面にO(オー)リング現れる。
そこから左に階段道も。
石垣と竹垣の間を進む。
赤土が露出した工事現場があった。
発掘調査は行われたのだろうか。
そのさきを回り込んで「山王三丁目遺跡」のポイントへ向かうと、そこにはマンションが建っていた。
マンション脇からの眺め。
ふり返った先が、樹木が繁る熊野神社境内だった。
後で「東京都遺跡地図情報」を見てみると、グーグルマップの「山王三丁目遺跡」のあたりは「熊野神社付近横穴墓群」と記されていた。
所在地は大田区 山王三丁目。古墳時代・平安時代の横穴墓で、土師器・須恵器・人骨が出土している。