墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

大森射的場跡 闇坂 東京都大田区山王

前々回の続き。

山王熊野神社から台地の縁の沿った道を北東に進んだあたりに「山王遺跡」のピンが立っていた。

 

位置的には大森山王ホームズの敷地内だったので門前から。ピンは奥の木々の辺り。

 

後で東京都遺跡地図情報を見ると、大森駅前の天祖神社を含む周囲一帯が「山王遺跡・ 山王遺跡内横穴墓群」として記されていた。弥生時代中期から奈良時代まで千年ほど続いた遺跡に成る。弥生期の環濠・住居・方形周溝墓や古墳時代の住居、奈良時代の横穴墓などが検出され、土器・石器・土師器・須恵器や鉄鏃・刀子・直刀、人骨が出土している。

 

上記の位置の斜め後ろの十字路で。 

 

角には「日本帝国小銃射的協会跡」の石碑がある。左奥はテニスコート。

大田区のサイトには「大森射的場跡」とあった。

明治22年(1889年)から昭和12年(1937年)ごろまで、射的場として使われていました。「日本帝国小銃射的協会跡」の碑があります。 

https://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/sannou/oomorishatekijou_ato.html

 

石碑の位置は、下記地図左下の「・23」のすぐ南。(以下は東京時層地図アプリから)

 

同じ位置の航空写真(平成19年)にはテニスコートが写っている。

 

戦前の地図には「大森射的場」とあった。

 

検索すると下記の「みみずのずみみ」さんのサイトに行き当たった。

 http://ssnx.blog118.fc2.com/blog-entry-168.html

上記には大森テニスクラブの「クラブの歴史」へのリンクがあり、そこには、明治天皇が奨励した小銃射撃を訓練する実弾射撃場が明治15年に本郷向が丘につくられらこと、それが明治期にこの場所に移転してきたこと、大正初期にテニス場が併設されたこと、昭和12年に射撃場は鶴見の北寺尾に移転し跡地が宅地化されたことなどが記されている。

http://www.omori-tennis.com/index.php?mod=multiview&mvid=3

 

現地では、そのようなことには気づかないまま、闇坂(くらやみざか)を下った。

闇坂(くらやみざか)
むかし、坂側に八景園という遊園地があり、その反対側に加納邸があって、この坂道は細く曲り、八景園の樹木がうっそうと覆いかかり。昼間でも暗かったために、この名がついたといわれている。

 

いい雰囲気の坂だった。左(北)側が旧八景園。

 

明治の地図で、八景園の「園」の字の下二本目、切り通しの崖面が記されている道が闇坂。

 

その30年前は、まだ切り開かれていないようだ(一本北でくねる道は見える)

 

切り通しの深さは5m以上ある。 

 

途中には、かつての出入口? 

 

坂下から見上げて。右が旧八景園側。

 

途中で北への枝道を入ると、階段道があった。