墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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ACT (Artists Contemporary TOKAS) Vol. 1 ”霞はじめてたなびく” @トーキョーアーツアンドスペース本郷(TOKAS本郷)

NHK日曜美術館のアートシーン(3/10)で紹介されていた展覧会へ行った。

会場のトーキョーアーツアンドスペース本郷は初めて訪ねたが、古くてモダンな外観の素敵な建物だった。

 

南東側から(手前の3階建て)

昭和3年(1928)に建てられた旧職業紹介所で、1949年から職業訓練校として使われて、2001年にアートセンターとして修築されたそうだ。鉄筋コンクリート造のオリジナルの設計は東京市、施工小田組。

 

タイトルは少々複雑だが、トーキョーアーツアンドスペースのプログラムに参加経験のあるアーティストから選ばれた佐藤雅晴氏・西村有氏・吉開菜央氏の3人展となっていた。

入館無料。3/24までの開催。

 

1階では佐藤雅晴氏による動画。惹き込まれてしまった。

固定カメラで撮られた幾つもの風景が数十秒ごとに移り変わっていくが、その一部はアニメーション化されていて現実と非現実との境界が曖昧になっていく。

作家は映像に撮った風景の1コマ1コマをパソコン上でトレースしてアニメーションにしたとのこと。今回の映像院スタレーションは、福島の日常を描いた新作《福島尾行》(2018年)

you tubeに動画が一部アップされている。


佐藤雅晴―福島尾行 / Masaharu Sato - Fukushima Trace

 

佐藤雅晴氏は1973年大分県生まれで、藝大大学院美術科絵画専攻修了。

なんと今月の3月9日に亡くなられたことをエントリを書いている今、展覧会公式サイトで知りました。

ご冥福をお祈りします。

 

サイトにはご本人の生前のコメントも記載されている。

先日、ついにというか、とうとうというか癌治療の担当医から余命3ヶ月と宣告されました。癌とは8年ほどの付き合いになるので、健康なひとにくらべれば「死」が身近にあったとはいえ、いざ具体的な数字でカウントがはじまると当たり前のように少しでも生きていたいなどと考えてしまいます。今は、緩和ケアに移りましたが、その前には腫瘍の拡大を抑えるために抗がん剤治療を行いました。これがまた「毒には毒を」的な発想に基づいた治療方法なので、時間をかければかけるほど身体はボロボロになります。以前にも経験していたので、ボロボロになれば遠出はおろか外出もままならないことはわかりました。体の調子をうかがいながらちょっとした旅行もかねて行ける場所を思い浮かべたら、福島の風景が頭をよぎりました。震災以降、ちょくちょく訪れていた場所だったこともあり、海沿いを中心にカメラと三脚をもって出かけました。でも結局、数年をかけて取材してトレースして作品にするという計画は、数ヶ月で中断することになりました。今回は、死神に首根っこを掴まれてしまいましたが、もしかしたら奇跡的に逃げることができるかもしれません。その時は、ひきつづき福島におもむき、また続きを描こうと思います。(2018.9.15 取手にて)

http://www.tokyoartsandspace.jp/archive/exhibition/2019/20190223-4997.html

 

2階が吉開菜央氏、3階が西村有氏の展示室になる。

階段室にはステンドグラスが。

 

連続する石の手摺が美しい。

 

3階展示室には梁と一体化したアーチが。

 

こちらの部屋にも。

 

窓からは向いの、本郷給水所公園が望めた。

 

その窓を外から(3階の角)

 

振り返った敷地には高さ5mほどのコンクリート塀がある。

 

塀の前には「済生学舎発祥の地」とあった。

 

裏側に解説が。

済生学舎発祥の地(本郷2-7-8)
明治9年(1876)4月9日、この地に医学者・長谷川泰(たい:1842~1912)によって「済生学舎」が開校した。済生="広く民衆の病苦を済う(すくう)この願いを込めて、医術開業試験(当時)の予備教育を目指して創立された学舎に、西洋医学を志す優れた学徒が多数集まった。明治12年冬、火災により校舎を失い、学舎長の自宅(現本郷2-7-8)とその隣地に移転、明治15年、現在の湯島2丁目(ガーデンパレスの地)に、本格的校舎を建設し、附属蘇門病院及び薬学部を付設して「東京医学専門学校済生学舎」と称した。
かくして学舎は隆盛の一途をたどったが、事情あって明治36年(1903)8月31日、創設者長谷川泰みずから廃校を布告して、28年間の歴史を閉じた。その間、2万1千余の男女学生が学び、9千6百余の医師を輩出し、わが国黎明期の医学振興、地域医療に果たした役割は極めて大きい。
「済生学舎」の廃校直後から、これを惜しむ教師・学生達によって、いくつかの医学講習会が設けられたが、その一つを母体にして明治37年4月、「私立日本医学校」が設立され、現在の「日本医科大学」(千駄木1丁目)へと発展し、済生学舎教育の精神は受け継がれていった。また、学舎ゆかりの「東京女子医科大学」「東京医科大学」も、それぞれの道を歩み発展していった。
郷土愛をはぐくむ文化財 東京都文京区教育委員会 昭和63年3月