墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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蘇峰公園(山王草堂記念館・古塚) 東京都大田区山王

今回からのシリーズもキープネタで。

桜咲く前の3月中旬に、大田区山王から品川区西大井にかけて坂道小道を歩いた様子です。

 

スタートは都営浅草線の馬込駅。駅の南を通る環状7号線に沿って南東へ向かうと、新幹線と横須賀線の二重高架に差し掛かる。

線路沿いの枝道に入って見上げた高架。ダンプ通っているところが環七。

 

そこから振り返った先に、結構な高低差の階段があった。配達人泣かせ?

 

最初の踊り場から。さらに3つある踊り場でカーブしていく。

 

上からの眺め。

 

その先を右折すると、新幹線をくぐる橋が。

 

橋の下を横須賀線(湘南新宿ライン)が通る。入り組んだ地形。

 

橋を渡った南側。

 

たまたま遭遇した貨物列車。

 

住宅街を通り抜け、最初の目的地・山王草堂記念館のある公園下に出た。

 

山王草堂は徳富蘇峰が居宅に付けた名前だった。

 

場所はここ。 

 

山王草堂は台地上だが、傾斜地の下まで蘇峰公園となっている。

公園脇の坂道。

 

公園入口にあった馬込文士村全体の説明。

馬込は昔から九十九谷と呼ばれ、丘と谷が複雑に入り組む起伏に富んだ地です。周囲は大根畑と雑木林、都会からも離れたこの九十九谷に尾崎士郎・宇野千代夫婦がやって来たのは大正12年のこと。面倒見がよく親分肌の士郎の誘いに関東大震災直後の住宅難も手伝って、多くの文士が誘いにのり、以前から住んでいた画家や作家も加わって、馬込はにわかに騒がしくなってきました。こればのちに「馬込文士村」といわれるもとになりました。
互いの家を行き交い、酒を酌み交わしては文学談義に花を咲かせ、麻雀やダンスに興じてはハメを外し、果ては離婚騒動までもちあがった文士村。文学的に転換期を迎え、時代の間で漫然とした不安にかられながら、次代の文学を模索する彼らの人間味あふれる生き生きした姿がそこにありました。今では残っている旧宅もわずかですが、文士たちが通っていた九十九谷の坂を歩きながら当時の面影にひたってみてはいかがでしょうか。

 

斜面を上がると記念館建物があった。入館無料。

前回エントリの清明文庫の模型の講堂で、勝海舟についての講演をしていたのが、左に銅像がある徳富蘇峰。

 

記念館の由来。

 山王草堂記念館の由来
徳富蘇峰(1863~1957)は本名を猪一郎といい、熊本県に生まれた。明治20年(1887)日本最初の総合雑誌「国民之友」を発刊、同22年(1890)に「国民新聞」を創刊した。大正7年(1918)56歳の時に着手し、昭和27年(1952)90歳に至り完成した「近世日本国民史」100巻は蘇峰の代表作である。蘇峰は大正13年(1924)この地に居宅を建て、山王草堂と称して昭和18年(1943)熱海伊豆山に移るまでここに起居した。邸内には、蘇峰の収集した和漢書10万冊におよぶ成堂文庫も設けられていた。その後、この地は静岡新聞社が所有していたが、昭和61年に同社より大田区が譲り受け蘇峰公園(面積4070㎡)として整備した。この山王草堂記念館は、旧所有者の意思とご好意をうけ、蘇峰の旧居である山王草堂の一部を保存公開するため建てられたものである。
昭和63年4月 大田区

 

徳富蘇峰はここで 20年近く暮らした。

山王草堂について
山王草堂は、徳富蘇峰が大正13年(1924)から昭和18年(1943)まで暮らした邸宅です。蘇峰は明治19年(1886)に故郷の熊本から上京すると、赤坂の勝海舟邸の借家、青山に建てた「青山草堂」と住まいを変えました。大正10年(1921)12月に文化施設の青山会館の建設計画を発表すると、青山の土地を会館建設のために提供しました。そして、同11年(1922)に蘇峰は大森山王の仮住まいに移り、同13年(1924)の晩春に山王草堂を落成して暮らし始めたのです。
山王草堂の土地は、明治33年(1900)頃に蘇峰が新聞に掲載された売り地の広告を見つけ、父の徳富淇水のために購入した約1300坪の雑木林でした。また、山王の邸宅の建築の際には、青山の旧宅の部材が多く使われました。
屋敷内には母屋以外にも、蘇峰が蒐集した書籍類を収蔵する「成簣堂文庫」、仮住まいのために建てられた「一枝庵」、蘇峰の次男の萬熊が集めた遺物などを保管する「牛後庵」がありました。

 

記念館建物の中に、蘇峰が暮らした建物の2階部分が復元されている。

 

実際の写真。

 

本が積まれた室内。

 

書簡などの展示コーナーも。

 

記念館入口部分は、旧建物の玄関が復元されている。

 

記念館外壁。

 

記念館の向かいには手入れの行き届いた庭園があった。

 

その一画の斜面上側に、大変気になる土盛りがあった。

 

「古塚」は古墳ではないが、平安末期から鎌倉初期に築かれた祭祀施設のようだ。

古塚
塚は、地面を60cm掘り込み、高さ2.5m余り赤土を方形に二段築き上げ、その内部には、一辺1.3m厚さ20cmの凝灰岩質砂岩の切石が石壇として安置されていた。塚の南面は、東西15m深さ50cmの溝が「コ」の字形に掘られていた。このことから、築造当時は、赤々とした人工の山が周囲の黒土から際立った存在として人々に仰ぎ見られたことであろう。
塚は、内部に石壇があることと築造方法が古墳と異なることから、祭祀に用いられたと考えられ、その年代は、かわらけ系の土器が溝から出土したことにより平安時代末期から鎌倉時代にかけてと推定される。
また、塚は、築造方法とその特異な内部構造から区内に類例がなく、非常に貴重である。
昭和63年 地域基盤整備第一課

 

発掘調査もなされている。 

 

立地や外見は、まさに円墳のようだが。

 

古塚の前から南に下る斜面。

 

気持ちの良い散策路になっていた。