前回のつづき。
岩戸川跡の緑道からゆるやかな坂を上がった住宅地の中に、竹薮に覆われた古墳があった。
第六天古墳 円墳(径28.6m、高さ2.7m)5世紀末~6世紀初の築造。
斜面には太い木も生えている。
太い竹もあった。
立てられたのは30年以上前だが、今もしっかり役割を果たしている説明板があった。
世田谷区指定史跡(古墳) 第六天塚古墳
所在地:世田谷区喜多見4-3
指定:昭和57年3月23日
古墳時代中期(5世紀末~6世紀初頭)の円墳。
昭和55年(1980)と昭和56年(1981)の世田谷区教育委員会による、墳丘及び周溝の調査によって、古墳の規模と埋葬施設の存在が確認された。
これにより本古墳は、直径28.6m、高さ2.7mの墳丘を有し、周囲に上端幅6.8~7.4m、下端幅5.2~6.7m、深さ50~80cmの周溝が廻り、その内側にテラスを有し、これらを含めた古墳の直径は32~33mとなることが判明した。またこの調査の際に多数の円筒埴輪片が発見された。
埋葬施設は、墳頂下60~70cmの位置に、長さ4m、幅1.1~1.4mの範囲で礫の存在が確認されていることから、礫槨ないし礫床であると思われる。
なお、同古墳については、「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が生えていたとの記載が見られる。
この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中世陶器の壺と鉄刀が発見されており、同墳が中世の塚として再利用されていたことも考えられる。
昭和59年3月 世田谷区教育委員会
竹製の柵がいい雰囲気。
北側から振り返ったところ。
その位置から北方向を見ると須賀神社があり、社殿のある土盛りが天神塚古墳だった。
古墳なうさんによれば直径16~17mの高さ1mほどの円墳と推定されるそう。
調べていたら、ODAKYU Town File|ODAKYU VOICEに下記のように紹介されていた。
現在の須賀神社の下には、未発掘の古墳があります。上に社殿が建てられたため墳丘はかなり変形してしまっています。隣接する道路を工事した際に堀が見つかり、円墳であること、中に横穴式石室があることがわかっています。
東京都遺跡地図にも「横穴式石室」と記されている。
道路工事で判明したということは、石室入口は道路側にあるのだろうか。
東側に鳥居が立つ。
石段脇には世田谷区保存指定のムクノキの大木。
その前には”湯花(湯立て)”の神事の説明板。ツアーではこちらの神事の解説が中心だった。
世田谷区指定無形民俗文化財
須賀神社の湯花神事
伝承地:世田谷区喜多見4-3-23 須賀神社
保持者:世田谷区喜多見4-3-23 宗教法人須賀神社
指定:昭和62年3月25日
須賀神社は、承応年間(1652~1654)に喜多見久大夫重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まりといわれ、近郊では「天王様」とよばれ親しまれている。
湯花神事(湯立:ゆたて)は、例大祭の8月2日に執り行われる。社殿前に大釜を据えて湯を沸かし、笹の葉で湯を周りに振りかける行事である。この湯がかかると一年間病気をしないといわれ、今日も広く信仰を集めている。湯花神事は浄め祓いの行事になっているが、湯立によって占いや託宣を行うのが本来の姿であり、神意を問うことであった。
素朴で普遍的な神事であったが、当区では唯一となり、都内でも数少ない行事となった。
平成13年7月 世田谷区教育委員会
湯立て神事は以前、千葉県八千代市の七百余所神社でも解説板を見た。
どちらの神社も境内に古墳が残っている。
開放的な社殿。
墳丘である社殿前から南方向。左奥の木立に第六天古墳がある。
墳丘から北側の道路方向。
墳丘から鳥居側、東方向。
須賀神社は四谷(新宿区須賀町)が聖地になって超有名になってしまったが、同名の神社は全国にあり、東京都内にも他に浅草橋や南阿佐ヶ谷、練馬区富士見台、武蔵村山などにある。
神社の西側には畑があった。奥の木立が須賀神社。
つづく。