市脇相賀古墳群からは南西に4㎞強、紀ノ川の左岸に渡って九度山の市街地にある古墳へ向かいました。
川岸の丘上に家々が密集していて、車を置ける場所は町営駐車場しかありませんでした。道も細いです。
が、魅力的な枝道があちこちに。
入った先がまた超細道。
このY字路で下へ折り返しました。
坂の途中に真田古墳。
真田幸村が大阪冬の陣に向かった抜け穴との伝説があるそうです。
真田古墳(真田の抜け穴伝説)
真田古墳は、紀の川と丹生川に挟まれた段丘状台地の南斜面の中腹にあり、古墳時代後期(6世紀頃)の横穴式石室をもつ古墳である。現在は墳丘が失われているため確かではないが、円墳もしくは方墳と考えられる。
天井石が無いため井戸のように見える玄室は、東西約1.8m、南北約3m、高さ約1.7mあり、羨道部分との境界には柱石を設置して扉石を設置できる構造になっている。玄室から南向きに造られている羨道は、幅1.7m、高さ1.2mで、長さは1.4mのみが確認できている。紀の川流域にある古墳時代後期の古墳の構造と様式がよく残っており、町内唯一の古墳として大変貴重な遺跡である。
地元に残る伝承から、真田古墳は通称真田の抜け穴と呼ばれている。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、九度山に蟄居を命じられた真田信繁(幸村)が慶長19年(1614)の大坂冬の陣に参陣するために利用した抜け穴であるという伝説が残っている。幸村の動向を監視していた徳川の目を欺くために利用したものとされているが、抜け穴の行き先としては複数の伝承が残っている。大坂城まで通じているという話が代表的だが、蟄居していた屋敷から通じているという話もあれば、紀の川に通じていてそこで水行の訓練を行ったという話も伝わっている。「紀伊続風土記」には、古墳の跡があり里の人は真田の穴と呼び幸村の作った抜け穴と思われている、と記されており、「紀国名所図会」には、訓練を行ったとされる真田淵という地名が記されている。
真偽のほどは定かではないが、真田幸村という人物が九度山で慕われていたという証拠となる重要な伝承である。
柵から見下ろす玄室。地面のレベルに天井石。
回り込んで斜面下(南西)側から。
板塀からこちら側が羨道ですね。
こちらにも解説(書き起こし略)
羨道天井石の下へカメラを差し込んで
板塀越しに玄室奥壁を。
真田古墳の脇の道も魅力的でした。
そこから振り返った真田古墳(道路右側)
2025年3月上旬訪問