墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

大日古墳 山口県防府市大字高井

山口市瑠璃光寺を見た後は、国道262号を南東に20分強の防府市へ向かった。

最初に訪ねたのは国史跡の大日古墳。 

 

グーグルマップに従って細道に入っていくと、山際の墓地に導かれた。

手前にあった説明板。

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国指定史跡 大日古墳
1948年1月14日指定
防府市大字高井字大日
大日古墳は、西目山の麓、佐波川が形成した防府平野を望む地に造られた前方後円墳である。全長は約40m、後円部の径は20m弱である。後円部に横穴式石室があり、南向きに開口している。
花崗岩の大きな石で構築された石室は、長さ9.5mの羨道と3.5mの玄室からなり、県内で最も長い。羨道の天井部に段差がついたり、玄室の側壁上部が内傾するなど、近畿地方の「岩屋山式石室」の特徴を持っている。
玄室の中には、凝灰岩製の家形石棺が置かれている。この石棺の石材は兵庫県高砂市周辺で採れる竜山石とみられる。石室の形態や、石棺を運んだことなどから考えて、この古墳の被葬者が、近畿地方の政権と強いつながりがあったと想像される。
なお、江戸時代の「防長風土注進案」に、大内氏の始祖とされる百済琳聖太子の墓という伝承が記されている。
平成28年4月
山口県教育委員会 防府市教育委員会 

 

そこから振り返った景色。目の前(右)には住居があって遠望はない。 

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墓地の後ろにうっすらと土盛りがあった。全長40mの前方後円墳

左側が後円部で石室入口がある。

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開口部。かつては標柱の前まで土盛りがあったはずですね。

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標柱の向かいには石仏が安置されていた。

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開口部から除くと奥に石棺が。羨道は10m近くある。

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フラッシュで。 

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玄室に入って、しゃがんだ位置から。

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見事な家形石棺。石仏が刻まれた小祠は後補。 

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奥壁に向かって左側。縄掛突起が彫り残されている。

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竜山石の産地は昨年秋に訪ねた。 

 

天井石を。蝙蝠を見た時点で、長女は逃げ出した。

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向かって右の側壁。

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奥壁側に回り込んで、開口部方向を。 

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玄門上の楣石も巨大だった。 

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フラッシュを焚かずに。

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玄室を背にして、しゃがんだ姿勢で。 

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大日古墳は山口県の観光サイトにも取り上げられていた。

大日古墳|観光情報|山口県の旅行・観光情報 おいでませ山口へ

 

上記にも「大内氏の祖先といわれている百済の国の王子琳聖太子(りんしょうたいし)を埋葬した墓という伝えもあります。」とあるが、大内氏百済の聖王(聖明王)の第3王子である琳聖太子の後裔と称していたそうだ。

 

Wikipediaによれば、琳聖太子周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとするとのこと。

しかし、琳聖太子の記録は古代にはなく、大内氏琳聖太子後裔を名乗るのは14世紀以降とされ、代々周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外、実態は不明なのだそう。

 

「多々良」ということは、百済から製鉄技術をもたらした一族なのでしょうか…