西求女塚(にしもとめづか)古墳は、東求女塚古墳から西に3.5㎞、処女塚(おとめづか)から2㎞東に立地しています。
国道43号線がすぐ南を、国道2号がすぐ西を通っているという幹線沿いの立地。
長軸がほぼ東西の、大きな(全長約95mの)前方後方墳です。
国道との間にある、スシロー灘店の駐車場側から見た墳丘。左奥が後方部。
墳丘の東側の道路。左が前方部先端。
その前方部先端左隅(南東角)の登り口から。
石仏が集められた一画。
祠もありました。
整備された通路を上がって行きます。
右手が墳頂。
墳頂の様子。後方部ですが、円形に整備されています。
鞍部にあった説明板。
西求女塚古墳
西求女塚古墳は、古くは「万葉集」に菟原処女の悲恋伝説にまつわる菟原壮士の墓として詠まれ、東灘区の処女塚古墳や、東求女塚古墳とともに、「大和物語」や謡曲「求女塚」などにも登場する古墳として知られています。
大きさは全長約95m、前方後方墳とよばれる珍しい形の古墳であり、築造当初は斜面全体が葺石で覆われていたと考えられています。竪穴式石室と呼ばれる埋葬施設に、中国製の鏡や鉄製の剣、刀、槍などが納められていました。 これらの出土品から、この古墳は古墳時代初期の4世紀の初めごろにつくられたと考えられ、当時のこの地方の有力な豪族の墓であつたと考えられます。
味泥地区のまちづくりの事業のひとつとして、古墳の再整備が計画されたため、平成4年度から、大がかりな発掘調査が行われました。このときに卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が多数発見されています。語りつぐからにも 幾許(ここだ)恋しきを
直目(ただめ)に見けむ 古壮士(いにしえをとこ)
(万葉集 田辺福磨呂)平成8年(1996)11月 灘区役所 神戸市教育委員会
「古墳図鑑」によれば、築造時期は3世紀後半とのこと。
昭和60年度(1985)から、阪神淡路大震災などの中断期間をはさんで平成14年度(2002)まで発掘調査で前方後方墳であることなどがわかり、後方部にあった竪穴式石室が慶長伏見地震で崩落したことや、墳頂などから出土した土器は山陰地方特有のものが多いことや、三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳や黒塚古墳、千葉県城山1号墳と同形品であることも判明したそうです。
1995年に刊行された調査概要はネット上で見られました(まだ読めていませんが…)
後方部縁から見た前方部方向。
後方部の中央あたりへ後ずさって。
後方部先端側まで後ずさって。
振り返った後方部斜面。
降りていくと「求女公園」の標柱がありました。
後”方”部の斜面中段のテラス。まだ前方後円墳と思われていたころの整備なのでしょう。
鞍部のあたり。左が現地説明板。
前方部には遊具があります。
遊具を背にして後方部側を見ると”段差”があり、来たときはここまでが墳丘かと勘違いしていました。
くびれ部のあたりにも遊具。
ここはもともとの位置にように感じられました。
すぐそばに大きな標柱がありました。
処女塚(おとめづか)、東求女塚、西求女塚と見ましたが、これら3つの墳丘には奈良時代にすでに伝説が生まれ、万葉集に歌われているそうです。
真ん中の古墳を一人の女性として、東西の古墳を娘に同時に求婚する2人の男性とみたて、女性はどちらか一方の男性を選ぶことが出来ずに生田川に身を投げ、二人の男たちは女性を追って死んだという物語で、「大和物語」や謡曲「求塚」の題材にも。
千葉県市川市にも似たような話がありますね(そばには古墳も)
2024年6月中旬