墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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処女塚古墳 兵庫県神戸市東灘区御影塚町

2024年6月中旬、有馬温泉に行く機会がありましたの近辺(?)の古墳もいくつか訪ねてみました。

往路には、かつての海岸沿いにあったと思われる3つの墳丘へ。現在はどれも阪神電車や阪神高速沿いの立地です。
最初に向かったのは処女塚(おとめづか)古墳。

 

「処女塚」の交差点の北西角から見る墳丘。この背後にコインパーキングがありました。

 

墳丘西側面の上り口。

 

石碑の脇に説明板。元の墳長70mの、なかなか大きな前方後方墳(現状は50数m程でしょうか)

国指定史跡 処女塚古墳(おとめづか)
指定日:大正11年(1922)3月8日 
所在地:神戸市東灘区御影塚町2丁目 
時期:古墳時代前期 
処女塚古墳は、東灘区住吉宮町1丁目の東求女塚古墳および灘区都通3丁目の西求女塚古墳とともに、古く万葉の昔からひとびとに知られた有名な古墳です。大正11年に国の史跡指定を受けましたが、すでに墳丘の一部は道路で削られていました。 
処女塚古墳の整備事業は、国の補助を受けて、 昭和54年度から墳丘の整備をはじめ、昭和59年度に完成しました。 整備に伴う調査の結果、南向きの前方後方墳で、もとの大きさは、全長70m、後方部の幅39m、高さ17m、前方部の幅32m、高さ14mあり、後方部を三段築成、前方部を二段築成にしていたことがわかりました。 
また、墳丘の斜面には石を葺いていましたが、 円筒埴輪は立てておらず、数個体分の山陰地方の特徴を持つ壺形土器が見つかりました。濠の状態については明らかにすることができませんでした。古墳を造った年代は、出土した壺形 器などによって、3世紀後半と考えることができます。
神戸市 

 

そのまま階段を上がって墳頂へ。こちらが前方部、南の海側方向。

 

振り返って後方部。3mほど高くなっています。

 

後方部墳頂。四角く整備されていて、「後方形」を味わえます。

 

木々が繁っており、元々低地の立地でもあって眺望はあまりありませんが、遠くに六甲の山が見えました。

 

後方部から見下ろす前方部。

 

墳丘の東側面にも階段があります。

 

その階段を見下ろして。頭上の木は桜ですね。

 

階段の途中から、くびれ部を。

 

階段を下りて、墳丘東側面を。

 

2基の石碑があります(左は養生中)

 

古墳として築かれた後にも、さまざまな物語の舞台となったのですね。

小山田高家の碑
延元元年(1136)、湊川の戦いに敗れた新田義貞は、生田の森から東に敗走して東明(処女塚近辺)まで来た。しかし、近づいた追手の矢で馬はたおれ、義貞は馬を降りて、処女塚に登って敵を防いだ。その窮状をはるかに眺めた小山田太郎高家は、これまでの義貞の恩義を思い出して、塚に駆け寄って自分の馬に義貞をのせて、東に逃れさせた。高家は塚上に留つて敵を防いだが、味方の敗色は濃く、ついにこの処女塚の上で討たれてしまった。「太平記」の描くこの武勇を記念して、弘化3年(1846)の代官竹垣三左衛門藤原直道が東明村塚本善左衛門・豊田太平・牧野荘左衛門に命じて建てさせたものである。

田辺福麻呂の歌碑
「古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥つ城ぞこれ」 
この歌は、万葉の歌人、福麻呂が旅の途中で処女塚に立ち寄った時の現況と、それから受けた感動を歌ったものである。古くから処女塚古墳には、東灘区住吉宮町1丁目の東求女塚古墳と灘区都通3丁目の西求女塚古墳にまつわる悲恋の伝説が言い伝えられている。 この伝説は、二人の男性が一人の女性を慕ったため、女性は身を処しかね、嘆きつつ死んでしまった。それを知った二人の男性も悲しみ後を追った。女性の墓を中にして、男性の墓を東西に造ったという物語である。側面には八十一叟正四位下加茂季鷹とある。その左方に建碑年号と思えるものがあるが明らかではない。 
平成6年3月 神戸市教育委員会 

 

前方部右隅側から。

 

こちらは左隅。奥が後方部。

 

前方部先端側には阪神高速の高架。

 

高架の側から、前方部先端を振り返って。

 

墳丘の東隣には、東明(とうみょう)八幡神社があります。

 

拝殿前には石柱に渡された注連縄が。

 

御祭神は応神天皇。神功皇后が朝鮮半島へ向かった際に武内宿禰が松を植えたという伝えられるそうです。

2024年6月中旬訪問