墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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山谷古墳 新潟県新潟市西蒲区福井

新潟市指定史跡の山谷(やまや)古墳は、到達が叶わなかった前回の観音山古墳から岩室温泉を通り抜けて650mほど北、また国史跡の菖蒲塚(あやめづか)古墳の南西3.2㎞に位置しています。

 

最初は見過ごした入口を振り返って。

 

ピラミダルな山は、弥彦山と峰続きの多宝山。

 

左が神社の参道で、右が古墳へのルート。車で入るのはやめました。

 

その先の林道は、意外に整っていました。

 

300mほど先で階段道に入ります。

 

しっかりとした標柱。山谷(やまや)古墳は全長37mの前方後方墳。

新潟市指定史跡山谷古墳
山谷古墳は、全長37mを有する古式前方後方墳である。菖蒲塚古墳に先行する4世紀中頃の古墳であると共に、墳丘下からは弥生時代後期の高地性集落も確認されており、本地域における古墳の出現過程を知る上で重要な遺跡である。

 

標柱から振り返って。軽ならここで方向転換可かと。

 

さて階段です。

 

2分ほど登って到着。前方部先端側になります。

 

石碑の裏には詩か歌が。

 

詳しい説明板。

新潟市史跡 山谷(やまや)古墳
全長37mの前方後方墳。4世紀の中頃の造営と推定される。昭和57年と62ねんに実施した学術調査を通じ、全容が明らかになった。被葬者は後方部中央に設置した長大な「割竹形木棺」にう東枕で安置され、管玉7点・ガラス小玉34点・ノミ形鉄製品1点が副葬されていた。棺の上からは破砕された小形土器、前方部のクビレ付近からは壺・甕が出土した。いずれも古墳祭祀に伴うものである。被葬者の性格としては、墳形の特徴などからみて、能登半島の政治勢力と強い結び付きをもった在地出身首長と考えられている。
弥彦・角田山の山麓には、4世紀前半~5世紀前半の古墳が4基分布する。これらは矢川水系を単位に結集した一つの政治組織に貴族すると考えられ、稲場塚(弥彦村)→山谷→菖蒲塚(西蒲区竹野町)→観音山(西蒲区樋曽)の変遷が想定されている。なお、本古墳の墳丘下には、古墳造営に先立ち営まれた「弥生高地性集落」も確認されており、「倭国大乱」に連動した戦乱の時代から古墳出現に至る歴史的な流れが理解できる重要な遺跡ということができる。
昭和60年1月30日指定 新潟市教育委員会

 

尾根上に築かれていますが、造り出しやテラス、小マウンドを持ちます。

 

前方部に上がって後円部方向を広角で。

 

墳形が良好に残っています。

 

後方部の墳頂はのっぺりと平坦。

 

後方部から「小マウント」の方向を見下ろして。

 

後方部から前方部側を。

 

前方部の左裾に降りて墳丘左側面を(奥が後方部)

 

このときは9月上旬でしたが、秋深まると紅葉がきれいでしょう。

 

後方部の、くびれ部側の隅。

 

そこから右に見る鞍部。

 

前方部右裾側から墳丘の右側面を。すぐに急斜面になっていました。


まさに山と谷でした。

 

こちらにpdf資料がありました。

標高は55m、比高差は43mの立地で、「古墳からは東に広がる越後平野が一望できる」とありますが、現地で眺望は得られませんでした。出土品は巻郷土資料館で見ることができるそうです。

https://www.city.niigata.lg.jp/kanko/bunka/rekishi/maizobunka/iseki/isekilist7.files/yamaya.pdf