墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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竹野遺跡・立岩 京都府京丹後市丹後町竹野

産土山古墳を見た後は、立岩を目指してみました。

 

途中の道の駅(てんきてんき丹後)に気になる一画がありました。弥生土器のモニュメントと墳丘墓的な高まり。

 

道の駅の地下に、弥生時代前期の「竹野遺跡」があるとのこと。

竹野遺跡
竹野遺跡は竹野川河口右岸の砂丘上にある弥生時代初期(今から2千数百年前)から中世にいたるまで、長期間、人々の生活が営まれた丹後を代表する遺跡です。この「道の駅」の地下には弥生時代前期の村が眠っています。
発掘調査により、石斧・石錘(石の重り)・黒曜石製の石器や弥生土器・土師器・須恵器など土器および鎌倉時代の銅鏡などが発見されています。また、古墳時代の竪穴住居や弥生時代の溝などもみつかっています。

 

南側の水田は、かつては潟湖だったとのこと。

竹野遺跡と潟湖
竹野遺跡の周囲には全長200mにも及び史跡神明山古墳、直径50mの史跡産土山古墳などの丹後を代表する遺跡が密集しており、古代丹後のロマンを感じさせられる地でもあります。そして、南側に広がる水田地帯は古代の潟湖(入り江)で、船による朝鮮・大陸との交易の玄関口だったと推定されています。

 

潟湖の出入口ということがよくわかる地形です。

 

竹野川を渡ってすぐ右折した先に駐車場。そこに「てんきてんき橋」という人道橋がありました。奥の丘上に大成古墳群があります。

 

川向うの景色。

 

ズームすると、稜線上に大成古墳群が。

 

海岸近くには、間人(はしうど)皇后と聖徳太子の母子像。

蘇我氏と物部氏の争乱を避けてこの地に身を寄せた穴穂部間人皇后(あなほべのはしうど:聖徳太子の母)は、大和へ帰る際に自らの名である間人(はしうど)をこの地に贈ったが、村人たちは恐れ多いことから皇后の退座にちなんで読み方を「たいざ」にした、という言い伝えがあるそうです。

間人皇后母子像 - 観光スポット - 「京丹後ナビ」京丹後市観光公社 公式サイト

 

振り返ると立岩。

 

説明板あり。

立岩
竹野川河口から竹野港付近の海岸では、柱状の割れ目をもつ巨大な黒い岩石が多く見られます。特に「立岩」は、その巨大さからも地域のシンボルとして親しまれています。
「立岩」に見られる柱状の割れ目は「柱状節理」と呼ばれ、地層中に入り込んだマグマが冷えて固まる際にできたものです。
竹野港の南西には「大成古墳群」があり、その石室には立岩と同じ岩石が使われています。当時の人びとが柱状節理によって適度な大きさとなるこの岩石を石材としてうまく利用してきたことがうかがえます。
地元の伝承によると、第31代用明天皇の第3皇子、麻呂子親王がこの地で悪事を働く鬼を退治したとき、この大岩に鬼を封じ込めたと伝えられています。岩の中からは今でも鬼の号泣する声が聞こえると言われています。
京丹後市商工観光部観光振興課 山陰海岸ジオパーク推進協議会

 

砂浜が裾まで続いていました。高さは20m近く。

鬼の声はわかりませんでしたが、岩にはエネルギーがこもっているように思えました。

 

岩の右へ流れる竹野川。

 

グーグルアースでは左に流れています。

時々変わるのでさっきの橋が架けられたのでしょうかね。