墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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赤坂今井墳墓 京都府京丹後市峰山町赤坂

雄大な網野銚子山古墳の感動を保ちながら、次に向かったのは赤坂今井墳墓。

南東方向に5㎞ほど福田川を遡った先、東隣の竹野川が拓いた谷への通り道に立地。

 

県道17号(網野峰山線)が削った丘(中央)の上にありました。

 

県道に向けて立ったいる説明板。

弥生時代の墳丘なので、「古墳」ではなく「墳墓」の表記になっています。

国指定史跡の赤坂今井墳墓。

国指定史跡 赤坂今井墳墓
赤坂今井墳墓は中郡盆地から福田川の河口へ通じる谷筋に面した丘陵の先端に造られた弥生時代後期末(2世紀末~3世紀初め)の大型方形墳丘墓です。16世紀ごろに山城が築かれたため一部削られていますが、作られた当時は東西36m、南北39m、高さ3.5mの長方形の墳丘と四方に巡る幅5~9mの平らな面からできており、墓域は南北51m、東西45mにわたる当時では日本有数の規模となります。墳丘築造に際しては、南北34m、東西22m、高さ9mにわたってっ丘陵を切断して墳丘や周辺の平らな面が造成され、より大きく見せるための工夫がなされています。
中心的埋葬施設である第1埋葬は墳丘上面の奥よりに位置し、長さ14m、幅10.5mの規模です。中央上面からこぶし大の石約300個による集石と割られた土器群が出土し、さらに西側には南北に並ぶ一列の柱穴列が見つかっていることから、独特な祭祀を行う場があったと考えられています。
第1埋葬を一部切り込んで造成された第4埋葬は、長さ7m、幅4.2mの規模です。舟底状木棺(長さ4.4m、幅1.3m)の棺内から頭飾り・耳飾り一式、鉄剣1点、ヤリガンナ1点が出土しました。頭飾りは、被葬者の頭の部分に管玉・勾玉が規則正しく三連に連なるもので、布などに編み込んでいたものと考えられます。使用された玉類は確認できたものだけでガラス勾玉22点、ガラス管玉52点、碧玉製管玉39点を数え、ガラス管玉の中には、古代中国で兵馬俑にも使用されていた顔料「漢青」(ハン・ブルー)の主成分であるケイ酸銅バリウムが含まれていました。
赤様今井墳墓はその規模、立地、墓上での祭祀のあり方を知ることができる丹後地域の弥生時代の発展を理解する上で大変重要なものです。
京丹後市教育委員会

 

説明板の脇の農道(車で入るのはお勧めしません)を上がって、左に登っていくと墳丘に出ました。

 

草が刈られて整備された平らな墳頂は、見晴らしがきく気持ちのよいところでした。

 

谷の南東方向。奥に日進製作所の工場建物。


目の前には、京都丹後鉄道宮豊線も通ります。今でも交通の要衝。

 

北方向。枝分かれする谷戸が多いところ。

 

墳丘背後の山側。目の前に切断面があります。

 

切断面を横から。左が墳丘、右が地山からの斜面。

 

現地にある箱にはA4で3枚のパンフレットも用意されていました。

それによると赤坂今井墳墓は、

・築造時期は2世紀末頃で、同時代では楯築墳丘墓(@岡山県)や西谷3号墳(@島根県)がある。

・このエリアでは、大宮町の帯域墳墓群に続いて赤坂今井墳墓が築かれ、湧田山1号墳(峰山町丹波)~網野銚子山古墳~神明山古墳へと続く。

・第4主体部からは、ガラス製勾玉・管玉・碧玉製管玉を連ねた三重の頭飾りや、三重県松原市丹生鉱山の大量の朱が出土。

・出土した土器は在地の特長を持つ土器の他、東海地方に分布の中心を持つ突帯に刻み目を施した被籠状突帯付壺が出土。そのほか山陰・北陸系の土器も認められ、被葬者が広範囲の王と交流していたことが考えれる。

等々の興味深い解説とともに、赤坂今井墳墓と楯築墳丘墓、西谷3号墳、大風呂墳墓1号墳との比較表も添えられていました。